日本の歴史を動かした人物や要素を挙げるとすれば、英雄や思想家、あるいは宗教や時代の動向などさまざまな要因がある。
それは、それぞれの立場によって、捉え方・考え方が変わって来ることや、時代によって人物の評価が変わるなどの要素もあって、誰もが納得する人物を挙げることは難しいだろう。
たとえば、人気の高い幕末の英雄の坂本龍馬にしても、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で爆発的な人気を呼ばなかったら、あれほどの注目度の高い人物にはならなかった。幕末・明治期には、坂本龍馬は土佐藩を中心としたローカルな英雄であって、日本全体の時代を変えた風雲児とまではいっていなかったのである。
その意味では、作家の創造力、影響力、そして、注目度を高めるキャラクターづくり、などのコマーシャル的な発信力も、歴史の著名人となるためには必要不可欠な要素といっていいだろう。
現在、学校教育の現場では、歴史教科書の改訂が行われ、坂本龍馬などの個人的な能力を相対化してあまり取り上げない傾向になっているが、これもまた、歴史的事実という観点から見れば正しいかもしれないが、時代の風潮であるとはいえ、やりすぎの感が否めない。
この考え方を推し進めていくと、歴史を動かすのは一人の人物ではなく、多くの人々の参加、動向が時代の変革、革命を生み出したという、行き過ぎた唯物論的歴史観になってしまう。
歴史という歯車だけではなく、会社にしても組織にしても、経営者・リーダーの先見の明や決断がその会社・組織を発展させたり衰退させることをみれば、民衆が多ければかえってまとまりがつかず、混乱や破壊を生むことは間違いない。
時代を動かすには、やはりリーダーとそれに従う民衆、そして、時代を動かす思想、宗教が重要であることは言うまでもないのである。
そのリーダーが善悪の価値観によって、国や民族をどういう方向へ導いていくのか、それこそが重大な問題である。
坂本龍馬の実像を離れた巨大なカリスマ性の誇張などは歴史的事実とはかけ離れていることは確かだが、そのカリスマ性によって、多数の幕末志士の心を動かし、薩摩藩や長州藩の同志たちを結び付けたりしたことは間違いない。
それが時代を変えた原動力にもなった。
それが龍馬のもつカリスマ性であり、人を魅了する力である。それは否定できない。
現代のマスメディア文化、時代の偶像、アイドルが多くの人々の心をつかみ、社会の動向、消費文化を動かしているのは、芸能人のタレントによる影響力であり、その時代の風潮文化を形成していることをみれば、坂本龍馬に集約され象徴される英雄的な要素は間違いなく存在する。
歴史的事実という無味乾燥な見方だけでは測れない民族の精神、それは一人物に象徴され、そして、神話的な物語は民族文化の核にもなっている。
世界各国をみれば、その国独自の神話体系があり、それを民族精神の象徴・文化として学校教育に取りあげている例は少なくない。
神話的英雄が歴史的人物であるかどうかは、別問題として、その民族のアイデンティティーを形成する歴史の一部として教育することは、国民精神を形成する上でも重要である。
独自の民族神話がなければ、どうなっていくのか、それはここでは論じないが、少なくとも、これが民族文化の背景になっていることは認めなければならない。
日本における古事記・日本書紀神話を空想的な物語、歴史的事実とはかけ離れた空想の産物といった考える観点があるが、それは民族精神のルーツを否定してしまうことである。神話には豊かな物語による過去・現在・未来への知恵が隠されているといっていい。
神話はおおむねその時代の王国の王統の正当化を示す面もあるが、それだけではなく、そこにある神話の数々は神々の失敗や人間的ともいえる活躍が描かれていることが多い。それは王権を支えて来た周辺の人々との関係を象徴もしている。
決して、万能のスーパーマンのようには描かれていないのである。人間よりは超人的な能力、生命力があるかもしれないが、そこには、神々から人間の時代へのバトンタッチ、その家系、系統による民族文化、精神を繋ぐ架け橋が描かれていると解釈できるのである。
だからこそ、坂本龍馬という人物を、時代の英雄、時代の寵児にしたのは、もちろん、司馬のフィクションの力だけれども、それだけではない。
その人間的魅力、海援隊を中心とした活動、オリジナリティーについては疑義が提示されている大政奉還など、龍馬がいなければ、成就しなかったことが間違いなくある。
その意味で、埋もれていた歴史の地平から坂本龍馬という英雄を司馬遼太郎が取り出したのは、時代が生んだ一つの奇跡でもあるといってよいのではないか。
(フリーライター・福嶋由紀夫)