日本人の精神形成を説明する上で、今でもよく使われるのは、「武士道精神」である。
「武士道」という言葉に過剰な思い入れ、郷愁、そして、さまざまなニュアンスが込められている。
例えば、「花は桜木、人は武士」というような言葉や「桜の花のように潔く生きて死ぬ」「大和魂」といったイメージもある。
国学者の本居宣長の「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」という和歌も有名である。
もちろん、その中には封建制度の元凶のようなマイナス的イメージで使われることもある。
かつて、私は東北の地方都市の予備校生だった時、宮城県の仙台市の予備校まで県境を越えて通っていた時がある。
その列車の中で、ラジオを聴いていた人が、突然、「うおー」と叫び、ボリュームを大きくした。
何事かと思って聞き耳を立てると、作家の三島由紀夫が市ヶ谷で、切腹して自決したというニュースだった。
私は三島由紀夫の文学のファンではなかったが、このニュースを聞いて奇妙な衝撃を感じた。
実際の事件ではなく、何かの間違いではないか、あるいは間違いではなくても、到底現実のものとは感じられなかったことを覚えている。
その時のニュースを語っていたアナウンサーの言葉も何もまったく覚えていなかったが、ただ一つ忘れられない光景がある。
それはラジオを聴いていた数人のサラリーマンが奇妙なほど興奮しながら、はしゃいでいるかのように、「これは武士道精神の表れだ」「今の若い奴らには切腹と言っても何のことか、切腹の作法も分からんだろうな」という言葉を話していたことだった。
にわかに「武士道」や「切腹」という言葉が口に出るほど、彼らは興奮の渦の中にいたのだった。
人はこうした突然のことが起こると、理解できない混乱の中で、妙なことを口走ったり、自分たちだけが事件を理解しているのだぞ、といったことを周囲にアピールするかのように躁状態になってしまうことがある。
おそらくこの時もそうだったのだろうと思う。
三島由紀夫の名前は知っているものの、その作品を読んでいないにもかかわらず、自分たちは知っているのだ、と思わないとアイデンティティを喪失してしまうような不安に駆られたのではないか。
それほど当時の三島の事件は衝撃だったのである。
日本の覚醒を目指して乗り込んだ三島は、武士道精神を意識して、その覚悟を切腹ということで示したかったのではないかと思う。
死に場所を探すのが三島の武士道だったといえるかもしれない。
といっても、これは後付けなので、あれこれ言うことではないので、このことはここだけのことにしたい。
ただ、気になったのは三島の辞世の歌が新聞に載ったとき、文学者などから下手な歌で、三島の精神が耗弱していたというような感想があったことで、これは辞世の句や歌を文学的に鑑賞するという弊害だと考えている。
辞世の歌はそのまま受け止めればいいのであって、歌の優劣を言う必要はない。
武士道というものは、単純に無意識に使うけれども、よく考えてみれば時代によってその概念や定義が変わるし、明確な教義があったわけではないので人それぞれによって受け止め方が違う。
武士道の主体である武士にしても、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代という時代によって武士の姿も倫理観も違っている。
今われわれがイメージする武士道精神は、おおよそ江戸時代に完成された武士道であって、その尺度によって、過去の武士の行動を計ることは明らかな間違いである。
江戸時代の武士道は、儒教の朱子学などの影響受け、幕府の学問としての君臣の忠義の問題として形成されてきた面がある。
儒教における親子の倫理的な孝行精神ではなく、君に対する忠義へとすり替えられたといっていいかもしれない。
代表的なのは、元禄時代の「忠臣蔵」であり、主君の仇を討つために雌伏し、艱難辛苦を舐めて、復讐を果たすという武士道であった。
だが、これも当初から武士道の華としてその行動が賞賛されたわけではなく、その行動については武士道として正しいかどうかの学者による論議があった。
「忠臣蔵」としてヒーロー扱いになったのは、その後の庶民たちの喝采や劇化したドラマとしての『忠臣蔵』の勧善懲悪的な構成、美化やいさぎよく刑に服して死んでいったことなどが後世になって伝説化や神話化されていったからである。
これは封建的な秩序を維持するための武士道の定義化、一種のスタンダードな聖化といっていいだろう。
と同時に、美化されるということは、それが一種の形骸化をもたらし、建前と本音というような二元的な思考や精神を生み出すことになる。
日本式責任の取り方である「切腹」も、いさぎよくなされたものもあるが、形式的な責任を取らせる方法としての「切腹」もあった。
すなわち、誰かが責任を取らなければならないので、家督を安堵させることを条件として「切腹」をする者を選び、説得して切腹させたのである。
昔読んだ本出て来た記述だが、記憶によれば、これは家を存続させるためにやむなく行うので「商い腹」と呼ばれていたという。
その武士道も、忠君から愛国へと変化していったのが、幕末明治時代の武士たちの動向だった。
日本の国家的危機に際して、忠義の精神が大名の主君から天皇家への忠誠へと変換し、新たな精神的運動として意識の覚醒をもたらした。
この背景には、江戸時代という平和な時代によって武士道が変質し、行動規範というよりも精神的な倫理的規範となり、理念化したことによって、その大本である日本の精神の源流、古事記や日本書紀神話にさかのぼる潮流を作ったことにあるだろう。
勝海舟とともに、江戸城無血開城に力のあった山岡鉄舟は、この幕末の武士道の体現者である。
西洋文明の移植の中にあっても、武士道を信奉し、世界の歴史観はキリスト教的歴史観で動いているが、「これからの日本人の生き方」として、次のように述べている。
「今後は祖先伝来の武士道をもって頭脳となし、抽象科学、物質的思想を手足となし、武士道である頭脳が指揮官となって、物質的科学が手足のごとき遵奉者(じゅんぽうしゃ)となって、未来の戦国社会において、仁義の軍を率い救世軍となければならぬ」
今こそ、この山岡鉄舟の言葉を噛み締めたいと思う。
(フリーライター・福嶋由紀夫)