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最近の出来事に思うこと

 このところ、毎日のように深夜サイレンが鳴り響いて、ハッと目が覚めてしまうことがある。

 どうしても、サイレン音を聞くと、何事かあったのか、と危険を感じて意識してしまうかららしい。

 事件なのか、事故なのか、火事なのか、救急車の搬送なのか。

 他人事ながら、動悸が収まらず、しばらく考え込んでいる。

 それにしても、ここしばらくサイレン音が多い。

 サイレン音がよく聞こえるのは、住んでいるアパートの前の道路が幹線道路とまでは言えないけれど、主要道路なので車の往来が激しいこともある。

 それでも、以前はそれほど聞こえなかったような気がする。

 主観的な印象だけれども、この最近、熱帯夜になって熱中症になる人が増えているのかもしれない。

 それほど連日、真夏日や猛暑日が続いている。

 この原稿を書いている時点で、全国では1週間という限られた期間だが、1日に換算すると、熱中症で平均1300人が緊急搬送されているという。

 それだけ全国的に酷暑が続いているということだろう。

 しかも、65歳以上の高齢者が多いとある。

 高齢者になると実感することだが、皮膚の感覚や弾力性、感覚が鈍るせいなのか、急激な変化に対応できないことが少なくない。

 たとえば、何もない所につまずきやすいことや倒れたときに骨折したりと、まさに若い時代のような柔軟性が無くなってしまっている。

 酷暑に対しても、若い時代ならば、細胞も若いので、ある程度の暑さに対しては自然に皮膚から水分である汗を発汗して体温を低くする。

 そのような人間の体に備わっている機能が老化とともに劣化するのか、高齢者になると発汗もあまり無い場合もある。

 だから全身が熱いにもかかわらず、それを実感できないので、大事な水分補給を怠ってしまうことで、熱中症一歩手前まで気づかない。

 酷暑というのは、日本だけではなく、全世界的なものらしく、アメリカでは猛暑のために道路が熱せられ、転んだだけで火事のようなやけど状態になって病院に担ぎ込まれるケースも起こっていると聞く。

 全世界的に天候が狂っているのかもしれない。

 そういえば、あまりの暑さにこのときとばかり活躍する?蚊も活動できなくなっていて、このところ蚊に刺される人が少ないという話もある。

 自然の生態系は、例年の環境、温度や気候などに左右されるから、適正温度を超えると、蚊でさえも夏バテしてしまうということだろうか。

 自然界が異常を来たしているのと並行するように、人間社会でも、衝動的な殺人事件や尊属殺人、詐欺などの猟奇的な事件など、異常な事件や事故、そして、様々な出来事が続いている。

 こうした現象を見ていると、誰もが自由で幸福であると思われる現代の裏に潜む影、人間性が劣化し、理性が崩壊してしまった現代の異様さ、何か理解しがたい複雑な事態に地球規模で突入しているような印象を受けてしまう。

 科学が発達し、文明の利器によって快適な生活環境が整えられていても、人間の中に

厳然と存在する、暗い衝動、闇の欲望といったものがまだまだ地表には現れていないけれど、マグマのように噴き出す機会を待っているといったイメージだ。

 この背景には、色々な原因が複雑に絡み合っていて、一概には言えないだろうが、ただ、その中で大きな要因を占めているのは、個人主義、自分の幸福だけを追求する利己主義的な思想や生き方が反映しているのは間違いない気がする。

 もし、人が自分のためにではなく、人のために生きることが出来たら、社会は今のような殺伐とした様相を呈することは無かったのではないか。

 そんなことをふっと考えることがある。

 これは宗教的な問題になるかもしれないが、宗教の基本は思想や教義の問題、無知による蒙昧な信仰と考えられがちだが、むしろ宗教の本質は人間性の回復や生きがいの肯定、人間関係の絆の構築のためにあるのではないか。

 共同体を形成するイベントや様々な絆は、ある意味では、社会を存続させるためのものであったかもしれない。

 共同体で行われる祭りや習俗や伝統行事などは、世俗的なものと考えられているが、実はルーツ的なものは宗教儀式や行事が背景となっている。

 よりよく幸せに生きるために、自然あるいは人工的に生まれたものであり、共同体が繫栄し、なおかつその共同体で生きる人間が幸せに生きるためのもの。

 それが宗教ではないのだろうか。

 要するに、社会というものが個人と個人が点で関係性が切れていることで起こる様々な事件や問題は、こうした人間関係の絆を切り離す個人主義的な思想や生き方が崩壊したことが大きいのではなかろうか。

 個人主義的な生き方は、結局、自分を中心に生きるために、周囲との関係性を拒否あるいは切り離さなければ成り立たない。

 人と人が共に生きることは、個人主義的な生き方では、必ず限界が生まれ、そして自己および人間関係を破壊する。

 特に、家族関係を破綻させ、社会を混乱させるようになっていく。

 そのようなものが明らかになっているのが、現代社会の様々な事件や事故、現象ではないだろうか。

 そんな現代の閉塞感を象徴するのが、宮崎駿のアニメ「君たちはどう生きるか」ではないかと思うことがある。

 このタイトルに示されている「どう生きる」という問いかけが、なぜ切実に感じられるのか。

 というと、それだけ現代のわれわれが生物学的には生きているが、その実は精神的な生きがいを感じられないという、心の悩みを抱えているからだろうと思う。

 生存を維持するために食べて生きるというのは、ベストではない。

 物質的な生存ではなく、精神的な生きるための糧、生きるための目的と生きがいを求めているのが人間本来の姿ではないのか。

 改めて、猛暑の中で、ただ水分補給を怠らずいるだけの自堕落な自分の姿を顧みて、思うことが多いのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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