
桜の季節となった。
桜の花を見ていると、さまざまな感慨を覚えるが、それをどう表現していいかわからない。
ある作家は、この世とも思われない桜の美しさに、その下には死骸が埋まっているというイメージを抱いた。
花は樹木の到達点、成熟と完成でもあるが、同時に萎れて落下するという死のイメージがつきまとう。
生と死が交じり合った花が、桜ではなかろうか。
生の旺盛なエネルギーがまたその中に死を孕んでいるといっていいかもしれない。
花期の短さがそうした思いを抱かせる。
だが、桜に対してわれわれが抱くイメージは、桜全体の品種の中のソメイヨシノという品種から来ている。
ソメイヨシノ以外の山桜や八重桜などは、そんな劇的な変化をもっているとは言えないのである。
その意味では、ソメイヨシノのようなパッと咲いてパッと散るというのは、この品種が生まれた江戸時代以降のイメージといっていいだろう。
もちろん、平安時代の歌人・在原業平が桜(山桜だろう)を詠んだ「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」のように花期自体は短い品種であったことは間違いない。
ただ花期の短さを武士道のような精神にたとえるではなく、自然の美しさの一部として称揚した歌人の心を読み取るべきだろう。
そして、その精神の背景には仏教的な無常観といったものがほのかに感じられるのである。
ソメイヨシノは、近世以降に人の手によって品種改良されたものだったために、観賞用にはいいが、その点においてはさまざまな問題を含んでいる。
樹齢が長くないこと、病害に弱いことである。
ソメイヨシノは成長が早いが老いやすく枯れるのも速い。
山桜などが100年を超えるのもあるのに対して、人工的に作られたために樹齢がそれに比べると短い。
そのために、樹齢(だいたい60年と言われている)を超えると、枯れやすくなり、また病害「てんぐ巣病」にかかやすく、しかもそれを蔓延させやすい。
人工的な栽培品種なので、自然で強くなった桜に比べると、どうしてもひよわなイメージがある。
そうした手入れしないと、枯れやすいソメイヨシノだが、美しさを極限までに備えた花のために人気は高いのである。
こうしたこともあって、近年はソメイヨシノから徐々に別な品種の桜に植え替えられているという。
ソメイヨシノの後継者となったのは、ジンダイアケボノという品種である。
これもまた交雑などによって生まれた品種だが、病害に強く、しかも花の美しさがソメイヨシノに似ていることから選ばれた。
このジンダイアケボノも、日本の固有種ではなく、交雑によって生まれたものであるが、面白い履歴をもっている。
というのは、ジンダイアケボノは日本産のソメイヨシノが友好の証としてアメリカに贈られたものが里帰りしたものだからである。
1912年にアメリカに移植されたソメイヨシノは、そこで別種の桜と交雑してアケボノという新しい桜を咲かせた。
このアケボノを今度は、日本で里帰りさせて育てた。
逆輸入されたアケボノは、神代植物公園で接ぎ木されたのだが、ある日、そこからアケボノとは少し違った花が咲いた。
それがジンダイアケボノだった。
アケボノという名前自体が、日本の国技である相撲界にアメリカのハワイからやってきた曙をほうふつとさせるのも興味深いものがある。
今や国技の相撲も、アメリカだけではなく、モンゴルなどからやってきて活躍しているのをみると、グローバルなスポーツとなっているといってもいい。
ジンダイアケボノも、そうしたグローバリズムが生んだ品種といっていいだろう。
考えてみたら、日本の文化自体も、こうした外来の文化と交じり合って、そこから新しい日本的な固有の文化が形成されて来たのである。
大陸や半島との交流によって、新しい文化がもたらされ、日本の地で育ち、固有な性質をもった伝統文化となって完成する。
そのような民族主義の背景にあるグローバリズムの流れがあることを改めて理解することは重要である。
そこから民族主義を超えた国際的な交流、グローバリズムによる世界平和への道が開かれていくのではないか。
自国中心主義になってしまうことによって、かえって滅んでいくような愚を犯さないように桜は警告しているのかもしれない。
たかが桜、されど桜。
日本の春を彩る桜は、さまざまなことを教えてくれるのである。
だからこそ、花見には言葉はいらない。
ただ、花の下で、飲み、食い、踊って楽しめばいい。
そんな平和な風景を、桜の花見を通して未来が見えて来る気がする。
さて、私もこれからそぞろ歩きの花見に出かけようと思う。
(フリーライター・福嶋由紀夫)