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梅雨に思うこと アジサイなど

 梅雨は、あまり好きではないという人は少なくないだろう。

 雨も、春夏秋冬の季節ごとに、春雨や雷雨、秋雨などいろいろあるが、それぞれ特徴があって季節の風物詩のようにとらえることができる。

 たとえば、春雨は、「春雨じゃ、濡れて行こう」というセリフもある。幕末の勤王の志士・武市半平太がモデルとなった劇や映画の主人公・月形半平太のセリフは、よく知られている。

 確かに春雨のような感じは春の喜びを伝えていて、身体でそのまま受け止めたい気がする。うまく表現していると思う。

 夏の雨は瞬間的な激しさもあるけれど、それが止むと一転して、青空から強い日差しが射してきて、気分もさっぱりとする。

 濡れるのは大変だが、すぐ乾いてしまうので、ストレスはない。むしろ汗ばんだ皮膚が涼しくなって快いほど。

 秋雨は表現は難しいけれど、天から冷気を含んでパラパラ降ってくると、身体が一瞬にして冷え切ってしまうので、気持ちがいいということはない。

 ただ、秋雨を通じて、もうすぐ冷たい雪の季節、冬がやってくるということを実感させ、心の中でそれに備える覚悟みたいなものを感じさせてくれる。

 秋雨は、空がしくしくと泣いているような印象もある。

 それに比べると、梅雨は捉えどころがない。

 と、書くと、いや長雨と湿気、黴臭くなるなど、特徴はいろいろあるじやないか、と反論されそうだが、梅雨の長雨はいつ始まり、いつ終わるか、ということが基本的にわからない。

 雨が続いてだらだら過ぎて「梅雨入り宣言」がなされ、晴れる日が多くなったような気がしていると、いつのまにか「梅雨の終わり」が発表されるという具合だ。

 要するに、いつ梅雨に入ったのか、終わったのかがわからない、のが梅雨の特徴で、なんとも煮え切らない気分にさせられるのである。

 気象庁のホームページなどを見ても、表現は「ごろ」「思われる」などという、という表現が使われている。

 その意味では、桜の開花のようなはっきりとした基準がなく、過ぎ去ったのちに、後追いで制定するのである。

 要するに、梅雨はその渦中にいると、始まりも終わりもわからない。

 しかも、降ったりやんだり、湿度が高いので、不快指数も高い。

 ストレスが高まり、憂鬱な気分になってしまう。

 ただ、これは人間側の事情であって、梅雨は春に芽吹いた植物を生長させ、花や実を結ばせるためには重要な時期なのである。

 この時期の花を代表するのが紫陽花の花で、青や赤や、紫、そのグラデーションが彩りを添えている。

 紫陽花の花は美しいと思うけれど、ただほかの花のように、最初は単純に賞賛できない気がしていた。

 その色の変化が、どこか信用ならない、妖しげな印象を与えるからである。

 正確に言えば、われわれが見ているのは、花ではなく、花弁状になっている萼(ガク)にあたるようだ。

 紫陽花は、珍しいことに、日本が原種の花である。

 しかし、よく目にする大きな花があでやかに見える紫陽花は、実は日本固有種ではなく、西洋で品種改良されたものであることは、割合よく知られている。

 日本固有種は、「ガクアジサイ」(額紫陽花)が近いらしい。

 確かに、西洋紫陽花に比べると、おとなしめで奥ゆかしい咲きぶり。

 いかにも、日本らしいたたずまいを持った花である。

 それが西洋で品種改良され、いかにも西洋人好みの派手で、西洋人形風になってしまった感がする。

 西洋にもっていったのは、幕末日本にやってきた博物学者のシーボルト。

 このガクアジサイに目をつけ、ヨーロッパにもっていったのは、もともと彼がプラントハンターとしての性格を持っていたことと、当時、花が高価な商品として取引されていたからである。

 シーボルトは、紫陽花の学名に、「オタクサ」という名前を入れたが、これは、当時、シーボルトと交流のあった愛人の「お滝さん」からとられたという説もあるが、本当のところはわからない。

 シーボルト事件によって、シーボルトは日本から追放され、お滝さんとは別れてしまった。

 このシーボルトとお滝さんから生まれたのが、明治時代、女医として活躍した楠本イネで、混血児として差別されながらも、苦学し、男性優位社会の医学を学び、やがてその実力で知られ行くようになった。

 その意味では、西洋紫陽花が日本の梅雨の風景に溶け合っているように、ハーフであったイネも、女性の地位向上に女医として貢献したことは、どこか不思議な符合を感じさせるものがある。

 日本人の忍耐強さ、向学心、そして、西洋人の強い意思が入っているイネは、まさに現代の国際人や多文化家庭の先駆者であるということができよう。

 紫陽花もまた、西洋紫陽花だろうが、ガクアジサイだろうが、その美しさに変わりはない。

 このイネの話を思い出すたびに、私は、かつて韓流ドラマの「宮廷女官チャングムの誓い」のことを連想する。

 この朝鮮王朝時代の歴史ドラマのモデルは、実在の女医であるが、記録においては、「大長吟」という名前でしかわからない。

 その「大長吟」がいかにして、王の信頼を受けて、その主治医となったかは史実では記されていないが、やはりドラマのチャングムのような苦難の道を歩んだことは間違いないだろう。

 チャングムは、その両親の無辜の罪ゆえに迫害の中、みずからの力で王の侍医まで上り詰めたが、紫陽花にちなむシーボルトの娘・楠本イネもまた、女性が医師になるというだけで、差別や蔑視を受けて来た時代を生き抜いた。

 その意味で、梅雨の中に可憐に咲く紫陽花は、国際家庭、多文化家庭を象徴する花のような気がするのだ。

 梅雨という憂鬱な気分になりやすい時期、そのことを思うと、どこか心の中で温かくほっとするものを感じるのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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