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正岡子規とベースボール

 アメリカの大リーグで活躍する大谷翔平選手のことについては、以前にふれた。

それは巨額の金をだまし取られたという話題で、一番信頼していた通訳の裏切りということで、イエスとユダを連想して書いてみたのである。

 今回は、その野球について書いてみたい。

 いつごろ日本に野球というのが入ってきたのか。

 そして、誰が野球に興じていたのか。

 入ってきたのは、明治時代で西洋人が居留地で野球をしていたのをみて、それが日本人にも伝わったという経緯らしい。

 その意味では、ハイカラなスポーツということで、おっかなびっくりのものだったのだろうか。

 その辺はよくわからないが、野球というスポーツに一種の西洋文明の民主主義や平等主義的な精神文化を感じていたのかもしれない。

 スポーツというのが身分を超えて、同じルールで競うということでは、そうしたスポーツマンシップというものを学べる場になったともいえるだろう。

 日本の古代でも、スポーツが身分の差を超えた一種の交流の場であったことは、中大兄皇子が好んだ蹴鞠を通じて、よしみを結んだ藤原(中臣)鎌足がよく知られている。

 鎌足は蹴鞠を練習し、中大兄皇子が自分に注目してくれるのを待ち、親しくなってから、天皇家の政権に脅威となっていた蘇我家をどう排除するかを相談した。

 二人は蹴鞠で知り合うことを通じて陰謀をめぐらし、乙巳の乱(大化の改新)で当時の権力者だった蘇我入鹿を暗殺したことは有名な話である。

 権力者に下の身分の者が取り入るのには、その権力者の好んだスポーツや趣味に付け入ることは昔から行われた。

 近世では、明治維新の三傑の一人、下級武士で殿様に拝謁できない身分だった大久保利通が、主君の島津久光の趣味だった囲碁に目をつけ、囲碁の習得に努力し、それによって側近になるまで抜擢されたことはよく知られている。

 「将を射んとする者はまず馬を射よ」ということわざもある。

 これは将を倒すにはその乗馬の馬を討てという意味だが、討とうとしても馬に乗った「将」が見えなけれな射ることができない。

 同じようにいくら優秀で才能あふれた人物だったとしても、まずその存在を認めてもらわなければ何も始まらない。

 よく「野に遺賢あり」というけれど、遺賢であることが多くの人に知られていなければ「遺賢」というよりも「隠者」であるに過ぎない。

 その意味では、自分が優秀であることが自然に伝わるような、何等かのアクションや宣伝とまではいかなくても表示や表現をしなければならない。

 その意味で、野球がたんなるスポーツであるかどうかは別として、幕末の日本人にとっては、その文明の精神を象徴していた競技であると感じていた部分はあったと思うのである。

 それまでの日本人というか、江戸時代あたりの武士のたしなみ、修行のスポーツというのは、戦うことに通じる水練や馬術、そして戦そのものの模擬戦であるような巻き狩りや鷹狩りであったことは間違いない。

 平和のための競技ではなく、いつ戦争が起こっても対応できるように心身を鍛えるための準備であり鍛錬であった。

 だから、純粋に技や修練を競う面もあったけれど、最終的には合戦での行動を迅速かつ見事に出処進退するためのものだった。

 スポーツ競技というのは、勝ち負けがあるが、それは武士たちにとっては理解しがたいものであったろう。

 なぜなら、野球などのスポーツは勝ち負けもあるが、それ以上に全体で一体化して相手に打ち勝ち、それも公正なルールにのっとり、競い合うという民主主義の精神を体現したものだったからだ。

 こうしたスポーツに興じている西洋人は、心身の健康のために運動をしているのだが、それを見た日本人は、そこに西洋文明の発展の秘密を垣間見ていたことは十分に想像することができる。

 そこに新しい精神文化、思想的な背景を見て取った。

 そうでなければ、野球に興じて自分たちもやってみようという気が起こらなかっただろう。

 少なくとも、儒教文明の中に生きていた李氏朝鮮王朝の貴族の両班(ヤンバン)が西洋人が興じたテニスを見て、「そんなことは下男にやらせればいい」というような発言したように、関心をもつことさえしなかったろう。

 西洋人が野球に興じることにも、彼らの発展した一端の理由があるに違いない。

 そう考えたがゆえに、早くから野球を取り入れて熱中したのである。

 実は、野球を好んで自分もその球技に熱狂した明治時代の有名人がいる。

 それが、明治時代に伝統的詩歌の革新を行った正岡子規である。

 正岡子規は伝統的な詩歌を否定したが、その根拠になったのは、自然の風景や出来事を伝統的な観念を付け加えて詠むのではなく、ありのまま見て観察し、そのままを詠む「写生」という方法を提唱した。

 このようなリアリズムの手法を身に着けることができたのも、ある意味では、野球に熱中して身体を鍛えた背景を見ることができるかもしれない。

 正岡子規というと、アウトドアよりもインドアのイメージが強いのも、晩年の喀血して肺結核のために、寝たきり状態だったからである。

 その病床から詠んだ詩歌が有名だからである。

 病気になる前には、活発な行動家で、戦争の特派記者として中国大陸を取材したほど、その行動範囲は広かった。

 その子規の革新的な精神が、西洋文化を象徴するようなスポーツである野球に魅力を感じたのも当然の帰結であることは間違いない。

 様式美のようにプロセスが決められていて、貴族や武士の伝統的な競技は身分の差をそのまま反映していたものだった。

 だが、野球は攻撃側と守備側が入れ替わり、しかも、ヒットやホームランを打てば誰でもヒーロー的な立場にもなれる。

 これはまさに目からうろこが落ちるスポーツだったに違いない。

 詩歌の革新をした子規が野球に熱中するのもむべなるかな、である。


 子規には、次のような俳句と短歌を詠んでいる(復本一郎編『正岡子規ベースボール文集』岩波文庫から)

 ◎俳句

 春風やまり投げたき草の原

 若草や子供集まりて毬(まり)を打つ

 草茂みベースボールの道白し

 夏草やベースボールの人遠し

 ◎短歌

 久方(ひさかた)のアメリカ人のはじめしベースボールは見れど飽かぬかも

 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如(し)く者はあらじ

 九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり

 「たかが野球、されど野球」

 新しい時代には新しい競技や新しい武道が生まれる。

それもまた、時代思想の反映でもあるといっていい。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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