
ふと考えていたとき、この表題が思い浮かんできた。
年齢的なこともあるだろうが、最近、知人で亡くなる人が多いと感じている。
その訃報を受けるたびに、その人との過去の思い出をたどりながら、ああいつか自分もその人と同じように霊界へ行くのだなと感じて、時には寂しくなったり、時には人生の意味を考えたり、少しずつ見えている風景が狭まっているような気になったりする。
これは知人の死という出来事によって衝撃を受けたことによって生まれた心理的なものなのだろう。
あまり日常生活では考えてこなかったこと(死)を強制的に直視させられてしまう作用だろうと思う。
物事を後ろ向きに考えてしまう精神的な寂しさは、おそらくこうした作用から来るもので、すぐにそこから日常の平常心へと戻っていくのはよくわかっている。
もし、知人や家族の「死」によって精神的な空虚さや寂しさを感じ続けていたとしたら、そのストレスによって体調不良や日常生活をふつうに営むことはできないだろう。
だから、そのようなショックを和らげるための時間や区切りとなるための儀式が必要になるのだろうと思う。
それが「葬儀」ということになるのだろう。
「葬儀」によって、単なる不在と感じていたことが事実となり、不在ではなくどこか遠くへ、二度と帰ってこない場所に行ったことを納得せざるを得ない。
もちろん、「葬儀」を行ったからといって、すぐに精神的な寂しさは消えることはないのだが、それを家族や知人、その他の人々と共有することによって、徐々に「死」という現実を受け入れていく。
忘れることはできないけれど、その事実を受け入れて、新しい日常を営んでいくことのできる力が与えられる。
そんなことを考えていると、堀辰雄の『聖家族』という小説の冒頭部分の情景が浮かんできた。
「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。
死人の家への道には、自動車の混雑が次第に増加して行った。そしてそれは、その道幅が狭いために、各々の車は動いている間よりも、停止している間の方が長いくらいにまでなっていた。
それは三月だった。空気はまだ冷たかったが、もうそんなに呼吸しにくくはなかった。いつのまにか、もの好きな群集がそれらの自動車を取り囲んで、そのなかの人達をよく見ようとしながら、硝子窓ガラスまどに鼻をくっつけた。それが硝子窓を白く曇らせた。そしてそのなかでは、その持主等が不安そうな、しかし舞踏会にでも行くときのような微笑を浮べて、彼等を見かえしていた。」
この小説は、堀辰雄の師でもあった芥川龍之介をモデルとして、その死から受けた衝撃を堀辰雄なりに昇華して描いたものとして知られている。
この冒頭を読んでも感じることは、葬儀は死者のためではなく、残されて生きている者にとってこそ重要な儀式であることがうかがえる。
慕っていた師の死から自分自身の心理的な波紋を省察し、そこから新たな小説のテーマが生まれ、そして、一編の小説を仕上げる。
こうした作用は、何も小説家の特性ではなく、死者と向き合った人々の陥る感慨ではないだろうか。
すなわち、死者が見えない世界(霊界)にいってしまうと、それまでの過去の記憶がよみがえり、その記憶の断片をつなぎ合わせながら、ひとつの物語をつくっていく。
そして、その物語が過去に実際あった出来事(事実)であると思いこむ。
かつて実際は喧嘩が多くて嫌なことが多かった夫婦でも、片方が亡くなることによって、記憶の修正がなされ、感情の濾過がなされ、そして事実が脚色されて一編のストーリーとなっていくのである。
喧嘩が感情の憎悪や対立、衝突ではなく、夫婦の絆を深めるきっかけとなった出来事というふうに変換される。
過去の思い出は事実そのままではなく、現在の感情からさかのぼり、現在の自分の思いに合わせて自動修正をするようになっているといってもいい。
そうした自己修復の機能があるから、新たな旅立ちに向かうことができる。
自分を支える根拠として美化しながら、記憶の中で新たな付箋とともに金庫の奥にしまい込まれる。
もちろん、そうであっても、失った悲しみという感情は消えて無くなるわけではない。
むしろ物語、ストーリーとして何度も慰める神話のように深層心理の中で流れ続けていくのである。
なぜ人間は、小説を読むのだろうか。
物語を昔から、昔話や童話、小説、伝説、神話などに仕立て上げて、ずっと代々語り継いできたのだろうか。
それは記録を残すことが主眼になっていると思われているが、そうではないのではないか。
記録として残すだけならば、箇条書きのような無機質の記録でもいいはずだ。
それこそ、学校時代の夏休みの宿題として出された日記のように、日付と天候のこと、その他、その日の行動を記せば事足りる。
だが、そこに物語的なストーリーを盛り込みたくなってしまう。
物語を楽しむことや面白いからだけではなく、そこに民族や家族のルーツ的なものを追体験して、失われてしまった感情や様々な思い出を次の世代にバトンタッチする意味もそこにある気がするが、いかがだろうか。
(フリーライター・福嶋由紀夫)