仕事というのは、好き嫌いではできない。
好きな仕事で生涯を送れればいいのだろうが、そううまい話はない。
フリーライターも同じで、浮草稼業なので、収入が一定していないので、どうしても生活が不規則になり、食事も粗末になる。
好きではない分野の資料も読み込み、インタビューをしなければならないこともある。
そうした稼業に嫌気がさした一時期、編集プロダクションから出向して、新聞関係の取材をしていたことがある。
小さなイベントやインタビューなどをやりながら、締め切りを気にしながら時には徹夜することもある。
大変ではあったが、それだけ充実していたこともある。
最初は、そんな感じであったが、しばらくすると苦手な分野の仕事が回されてくるようになった。
それが戦争関係の取材である。
戦後生まれで、戦争体験もなく、しかも歴史関係では一番やりたくない分野だった。
あまりにも生々しい時代なので、その関係者がまだ生きていることや政治など微妙に扱いによっては、問題となるケースがあったからだ。
考えてみれば、私の時代は全共闘などが活躍した時代で、政治への関心が高かった時でもあるが、大多数は無関心を決め込むような世代だった。
当時、「三無主義」というのがマスコミに取り上げられ、話題になっていた。
「三無主義」というのは、「無関心」「無感動」「無気力」のことを指していた記憶があるが、正確ではないかもしれない。
いずれにしても、この言葉を聞いたときには、私は自分のことを言われているような気がしたほどぴたりと感じるものがあった。
高校時代は、まさにやる気も何も無かった。
空気を吸い、メシを食い、そして退屈な授業に出席して帰宅する。
そうした世代育ちである私は、だから戦争関係の仕事はやる気がしなかった。
やるのは、歴史関係であれば、江戸時代以前の話だった。
そのくらい昔になれば、資料を読んでも、それほど生々しさを感じない。
むしろ、自分とはかけ離れた時代という感じなので、そこにロマンを感じた。
しかし、仕事である以上は、その時はやってくる。
ラブストーリーは突然に、ではないが、私がその取材を上司から命じられたとき、唖然とした。
私はあるマスメディアの契約社員となって、取材を請け負い、駆け出しながら、東奔西走していた時期だった。
とはいえ、取材をすることが慣れていなかったので、小さな町ネタを拾いながら、短い記事を書くことに精を出していた。
短い記事だと、それを取材し、書き、そしてデスクに出して直してもらう、というプロセスですべてが完結する。
書き終わって記事になった原稿を読み返しながら、そこで1日が終わり、完結するのである。
だが、戦争関係の記事はそうはいかない。
その日、私が命じられたのは、戦後の決算をするために、戦時中の問題をもう一度点検し記事にすることだった。
もちろん、一人ではできないので、取材班を組んでやらなければならない。
テーマは「特攻隊」だった。
その「特攻隊」を取材し、ヒューマンドキュメント的にルポをしながら書くというものだった。
その話を聞いて私は途方に暮れたことを覚えている。
戦後生まれの私がどうして、若き命を捧げた特攻隊の青年たちのことを書けるだろうか。
その気持ちがわかるだろうか。
わからないならば、どういうアプローチをしたらいいのか。
限りなくわからないことばかりだった。
ならば、仕方がない。
資料を読むしかない。
というわけで、学徒動員で戦場に赴いた学徒たちのことを書いた本を集めて読み始めた。
代表的なのは、『きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記』(岩波文庫)である。
この本の中には、特攻隊で散った若人の声も載せられている。
それを読みながら、なぜ彼らは、どのような気持ちで死を受け入れることができたのか。
という思いだった。
その手記を読むたびに、わからないことだらけだった。
ただ、この本は学徒たちの生の声を収録していることは間違いないが、編者によって、取捨選択されていることはあまり知られていない。
戦後の生々しい空気がただよっていた時期なので、戦争を肯定的にとらえるような内容の手記は取り除かれ、「反戦的」なトーンのあるものを選んだと述べている。
確かに、そうした配慮も必要かもしれないが、それでは本当の学徒(わだつみ)たちの声を拾っているといえるだろうか。
一方的な切り取り、選択がそこにあったとすれば、やはり編者の政治姿勢に都合のいいようなものばかりになってしまうだろう。
真実よりもイデオロギー的な意図がそこには感じられるといっていい。
いくら戦後の生々しい空気が残っている時代であっても、真実よりも、民衆の意識をある方向へ誘導するような姿勢はどうだろうか。
いささか疑問を感じないわけではない。
そうしたことを考えれば、どのようなアプローチをしたらいいのか。
取材を始める前に、ずいぶんと悩んだことを思い出す。
特攻隊の人々の真実の声を聞くのには、どうしたらいいのか。
そう思い悩み、あるときはハチマキをして水をかぶったり、お経を読んだり、冥福を祈ったりした。
不思議なことだが、そうしたことをしているうちに、霊界から特攻隊の学徒の霊たちが乗り移ってくるような気がしたことを覚えている。
それで、ようやく書くスタンスが決まり、取材をして、遺族や記録、そして、特攻隊の飛行場のあった場所まで訪ねた。
遺書を読んで感動したのは、鹿児島県の知覧にある記念館か博物館だったと思う。
そこには、遺族から寄贈された遺書や手紙や手記などが展示されていた。
その実物を読みながら、短い人生を命がけで歩んだ学徒の心情を感じることができた。
その手紙の遺族に会いたいと思ったが、住所などの個人情報は隠されているので、連絡することができない。
だが、不思議なことに手紙の文面を読んでいくうちに、地名がわかり、そこの電話帳を検索し調べて、かたっぱしから電話した。
そうして特攻隊の霊に導かれたかのように遺族を探し当てることができたケースも多い。
果たして私の書いた記事が彼岸の世界に生きる彼らに届いたかどうかは知るすべもないが、きっと喜んでいてくれるという気が今でもしている。
(フリーライター・福嶋由紀夫)