「革命」という言葉を聞くと、イメージとしてはフランスの革命やソ連の暴力革命など、どこか武器や暴力をもって既成の政権を倒すという人工的、かつ唯物的な印象を受けてしまう。
確かに、この「革命」という言葉には政府転覆という、民主主義的な選挙や衆知を集めての会議や合議による政治というよりも、一部の勢力や政党が主導権を得るために、特に軍事的な力や陰謀、テロなどの非常手段を取って強制的に政治変革を成すというイデオロギー的な匂いがする。
しかし、この「革命」という言葉自体は、古代中国の儒教の、特に孔子の衣鉢を受け継いだ孟子によって唱えられた五行思想による王朝交代の理念であり、その背景にあるのは、天命思想である。
天命を改(革)めるということから「革命」という言葉が成立しているのである。
要するに、国の頂点に立つ王者、皇帝は、天から命令を受けた代理的な支配者であり、それは「徳」のある人物を天が認めて選んだ結果であるとあるという、天の代理支配論である。
「天」というものをどう考えていたのか、西洋的なゴッドのような神と考えていたのか、自然神のようなシャーマニズム的な存在と考えていたのか、それはわからないが、少なくとも天命を受けた理想的な政治の時代がかつて存在したという考えが、孔子にみられる儒教思想の根底にある。
神話的な存在である堯・舜が「天命」を受けて皇帝として政治を行っていた時代がそれに想定されている。
皇帝は自分の子ではなく、天命を受けた人物を後継者に選び、支配を「禅譲」した政治形態である。
その意味で、皇帝は、その能力ではなく「徳」によって、仮に立てられた存在であり、その「徳」が無くなれば、その位置と地位を失う。
これは理想的な政治哲学であるが、それを推し進めていくと、プラグマティックな解釈が横行するようになり、上に立つ者が「徳」を失ったと恣意的に解釈して、自らが「徳」を持っているとして旗を掲げて放棄する下克上や政府転覆革命を生み出していく。
孟子の唱えた「易姓革命」は、諸刃の剣のように、政治的に身を置く立場によっていかようにも変化するために、危険思想とみなされた。
確か江戸時代は、こうした孟子の思想を危険思想として禁制の対象としていた面がある。徳川幕府にとって、易姓革命とは徳川から別な氏姓への統治者の交代であるために認めることができなかったといえよう。
なぜ王朝が交代する(あるいはしなければならない)と、孟子は考えたのだろうか。それだけ当時の孟子の置かれていた政治状況が、「革命」によってしか変えられないという状況が背景にあったと考えるしかない。
戦国乱世の弱肉強食の国家の乱立の中にあってこそ、孟子の唱えた「易姓革命」は意味を持つ。
この言葉には、どの国であっても、「天命」が降りる可能性を秘めているというプラグマティックな政治思想を胚胎している。
「天命」を失った天子(皇帝)は、下からの革命、武力によって倒してもかまわないという思想である。
これは孟子の師にあたる孔子には、ほとんどなかった考えである。
孔子は「徳」といううよりも、「仁」を強調したが、この言葉には、人格的な教化、すなわち国の王に「仁」を説き、天の意思を伝えて政治を変えていくという間接的な政治哲学である。
それが可能だと考えたから、孔子は各国を巡り歩いて、教えを説き、それを受け入れた国を教化して「天命」を受けた主君を育てようとした。
孔子は、その点で、天の意思を常に意識し、自分の生き方を天のみ心に任せ、それがどんな意思であっても受け入れようとした。
孔子は、必ず天命が自分の生きている時代に降りると信じ、弟子を養成し、政治的遊説を行った。
だが、孔子の一番期待をかけた弟子の一人は早死にし、「天はわれを滅ぼすのか」と嘆いている。自分の代で難しければ、次の世代に理想の実現を願ったのだが、そのような孔子の思いは裏切られたのだ。
こうした状況を迎えても、孔子は決して「天命」を疑うことはせず、なので、自らの思想によって政治的勢力を形成して、武力によって政治情勢を変えようとはしなかった。
孔子の政治的な思想の根拠となったのは、おそらく暴虐の政治によって天命が無くなった殷を倒した周の政治思想、その事例を理想としたのだろう。
だからこそ、乱れた戦国春秋の歴史をつづり、その最後に理想的な政治の時代に現れるはずの霊獣の「麒麟」が捉えられ殺されたという「獲麟」という言葉をもって終わりとした。
孔子は自らを「麒麟」のような存在、天命が失われた時代の象徴であるみなしたのかもしれない。
だが、孟子は「天命」は自らのポジティブな行動によって変えられるとして、すなわち、孔子とは違って自らを天命を代理している予言者として位置づけたといっていいかもしれない。
こうした孟子の思想の背景には、孔子の時代とは違った当時の政治状況が反映しているだろう。
と同時に、孟子の生い立ちに、その思想の萌芽を見ることができるかもしれない。
孟子は、伝説的な話で史実であるかどうかは疑わしいが、その母によって、育てられたという「孟母三遷」という言葉が有名である。
孟子は最初、墓地の近くに住んでいたために、葬式などに興味を持ち、遊びなどもそのまねごとをするようになった。
それで、母は墓地の近くから引っ越しをし、街に住居を移した。そこは市場の近くだったので、孟子は近所の商人の子供たちを親しくなり、商人の真似事をするようになってしまった。
孟子の母は、これはまずいと思って、三度目の引っ越しをした。
今度は、学問所の近くだったので、孟子は学問に興味を持つようになり、母も安心した。
この「孟母三遷」は、それだけ子供の環境は重要であるいうことを示した話だが、逆に言うと、孟子が孔子と並び称せられるような聖人となったのは、母の関与、周囲の環境整備によって、その人格と教養が形成されたといことである。
もし、母が孟子の環境整備に奔走していなかったならば、坊さんになったかもしれないし、商人として金儲けに走ったかもしれない。
もちろん、孟子には素質があったかもしれないが、天命があったとしても、孟子の環境が整備されていなかったら、聖人にはならなかったということである。
「天命」は絶対的なものではなく、環境によって変えられる。そこから、「天命」は地上の働きかけ「革命」によって変えられるという孟子の「革命」思想が生まれたといっても過言ではないだろう。
(フリーライター・福嶋由紀夫)