ネットの投稿小説サイト「小説家になろう」や「カクヨム」などを拾い読みしていると、その時の人気テーマが盛んに投稿されている。
それを見ると、若者世代に表面的なブームの流れとは別に深層心理的な現象、少なくとも何が無意識の世界で流行っているのかがわかる。
もちろん、それだけでは時代を読むというのは難しいけれど、ただそのようなネット小説でブームになっているテーマは、時代の潮流と無関係ではなく、どこかつながっていると考えられるのである。
時代というものがそこに生きている集団意識の反映だとすれば、多くの人々が共感する風俗や流行は、時代の文化の象徴でもあるだろう。
ネット小説とはいえ、単なる若者世代の流行に意味がないとは言えないのである。
おそらくそこで好んで取り扱われるテーマや設定、ストーリーは、時代の本質にふれるものがあるのだ。
ちよっと少し前までは、死後に「異世界転生」して活躍するというテーマがブームだった。
異世界に生まれ変わり、そこで現実世界では得られなかった超能力を得て無双状態のヒーローになるというものが多かった。
すなわち現実の世界では、イジメにあい、引きこもりとなって、誰にも無視されていたニート、あるいは引きこもりの少年が交通事故やその他によって死後の世界に行き、そこで神(女神が多い)から転生の恩恵であるチート能力をもらい、異世界で活躍するというものだった。
これは現実世界からの逃避でもあるが、それだけ時代に対する閉塞状況が背景にあり、どうにかして新しい自分に変わりたいという変身願望があるといっていい。
その次に多くなったテーマは、生前に読んでいた小説「悪役令嬢」などの世界へ転生し、その状況を変えるべく奮闘するというもの、または、仲間から無能力として追放され、それから能力に目覚めて復讐するという「ざまあ展開」の物語、そして、いいなずけや恋人が奪われてみじめな状態になって転落するが、そこから這い上がって見返すという「寝取られもの」などが主流になっている。
いずれにしても、主人公に自己の境遇に投影したり、願望による代償行為が底流にあることは間違いない。
その中でも、気になっているのが、転生した貴族などの家から、教会などで行われる能力判定で「無能」と判定され、家から後継者候補から外され追放されるテーマである。
というのも、この「能力」がないという判定による追放というテーマには、背景に後継者問題、家の伝統を引き継げるかどうか、という現代の会社や組織の後継者問題があるように思うからである。
小説で分かるのは、親が子に期待するのは、人間性ではなく、家を維持し発展させるだけの「能力」を持っているかどうか、という一点である。
なので、「能力」が貴族の好む魔法や剣のようなものでなければ、「無能」として家から無慈悲に追放する。
そこには親子の情愛、家族としての絆がない。
異世界転生ものやその亜流のフィクション世界で「愛情」がない、切り捨てられるストーリーを描く傾向のには理由がある。
それは自己の置かれた環境と思いの反映であり、かくあるべしという願望なのである。
異世界転生やその他の亜流の小説に共通しているのは、追放された側の復讐といっていいだろう。
そして、自分を捨てた者たちへの恨みと復讐を企てる。
要するにお前たちが無能力として捨てた自分たちには、本当は誰にも負けないほどの能力があるのだ。
だから、そんな自分を評価できなかったお前たちは、やがてそれを見て没落して後悔するのだ。
そういうざまあみろといった展開をするものが多い。
そして、物語の悪役令嬢ものは、冒頭からステレオタイプの展開が少なくない。
婚約者の皇太子や大貴族の子息から、「お前とは婚約を破棄する!」と断罪されるプロローグから追放されたり、ひどいケースになると、処刑されたりする。
そして物語の世界では悪役令嬢と言われているが、そこに悪役令嬢として転生した人間は無実で、その悲劇の結末を回避しようとするのである。
こうした冤罪を受けて、そこから甦る主人公を作者が書く小説が多いのは、書き手側が社会や家族から正当な評価を受けていない、自分には人が理解できない「能力」があるはずだという心理があるからだといっていいだろう。
もちろん、それを書き手側が自覚しているかどうかは別問題である。
要するに、ライトノベルの異世界転生の世界で、自由に自己実現を計り、ありうべき自己の自尊心を満足させたいという衝動がある。
よく好んで取り上げられる設定で主人公が、家族や学校で、底辺な立場で引きこもり、イジメ抜かれるという問題もそうで、そこには実際にイジメられる側であるかどうかは別に、無意識に自分は勝者ではなく敗者側という思いがあるからだろう。
なぜネット小説では、自分が敗者側であり、引きこもりであり、評価されていないという不満を抱えているのか。
やはり家族の中で、自分の位置がない、学校にも普通の人間関係がない、というものがあるからだろう。
こうした不安や不満、自分が家族にも学校でも低評価、あるいは認められない、親から愛されていない、兄弟姉妹からも疎外されている、と感じるのは、実は個人の資質だけの問題ではない。
青少年は自我意識をもつようになると、そこでの自分の価値や親子兄弟関係などの絆からの離脱と自立を考えるようになる。
そうした時期は、疎外を抱きやすくなり、そして、それがうまく着地できなくて、人間関係を断ち切り、引きこもりという選択に追い込まれやすいである。
背景には、家族が祖父母や親と同居して生活する大家族の制度、共同体としての家族というものが壊れてしまっているということがある。
大家族といのは煩わしいと思う人がいるかもしれないが、そこには親子関係、祖父母、両親、そしてこの世代が同居することで、家族の中で、自分自身のアイデンティティを確立させられるというメリットがある。
共同体的な行動をするということは、弱肉強食の自然社会で、部族を維持し、子孫を残すための一番合理的なものとなっている。
それと同じように大家族制度は、個々のケースをみれば問題点もあるだろうが、人間の自然な成長段階のプロセスを通過することで、大家族が最適な家族関係を構築できるものと言えるだろう。
大家族で生活するというのは、個人としての成長が基本的な祖父母との関係、親子関係、兄弟関係によって、それが社会に展開され、人間関係をスムーズにつなぐことができるスキルや心情の豊かさの成長につながっている。
改めて家族関係の重要性を考えなければならない時が来ているのだ。
(フリーライター・福嶋由紀夫)