自然というのは、どこでも変わらないというのは、半分本当で、半分はウソだ。
確かに風土の違いはあっても、そこに住むのは同じ日本人であり、同じ村や町、そして山や川の光景。
そこが自分の知らない場所であるほど、わくわくすると同時に、そこからまたどこかへ移動しなければならないという思いに囚われる。
旅をしていた時期、短い期間のうちに、各地を少しばかり廻ったことがある。
北は東北、そして南は九州へ行った。
旅人は定住者ではないから、どんな風景でも初めて見ることになる。
その時は、新鮮な気持ちになって感動し、そしてそこを離れるときはセンチメンタルな気分になったことを覚えている。
そうした旅で、忘れられない場所がある。
九州の宮崎県の高千穂、特にそこへ向かう途中の高千穂鉄道(廃線になる以前の話)で、途中で見た風景は懐かしいというか、どこか魂の原風景を見ているような不思議な気持ちになったことを覚えている。
よく知られているように、高千穂へ向かう路線は渓谷を沿うように走り、谷間の下の風景と谷の両側にへばりつくように人家が並んでいる場所がある。
途中下車した場所が数か所あるが、そのうち一つは谷川を橋が架かっていて小さな街といっていい。
そこで覚えているのは、理髪店や八百屋、そして、崖に沿って並ぶ家々だった。
私はそこを歩きながら、なぜ自分はここにいるのだろうか、といった思いに駆られ、初めてバッグから絵葉書を取り出して傍の岩の上に腰かけてペンを走らせた。
この言いようのない寂しさというか、人恋しい気持ちに誰かにそのことを訴えたいと思ったのである。
風が吹いていて少し寒かったが、絵葉書の余白に自分が感じたことを書いているうちに、なんだか自分が恥ずかしいことを書いているような気がしてふとため息をもらした。
谷の底には川が流れ、そして、現代の建築物の家があるけれど、その背景をなしている山や岩肌、そして道、少しばかりの生活の匂い、夕暮れ近くなって灯りがついていく。
その絵葉書を誰あてに書いていたのか。
それは当初、誰をも想定していなかった。
ただ誰かに書いてみたい、という思いだけだった。
よく考えれば、それは誰あてでもなく、自分自身へのメッセージだったかもしれない。
そのことに思いいたって、そのままバッグに仕舞い込んでもよかったかもしれないが、そのときは実際に誰かに送ってみたいという衝動に駆られた。
私は自閉症気味だったので、知人友人というものは少なかった。
さて、誰に送ろうか、と考えているうちに、そろそろ宿泊予定の高千穂駅に向かわなければならないと思って、手帳の住所欄から適当に名前と住所を選んで、あて名を書き込み、郵便ポストに投函した。
薄っぺらな絵葉書一枚。
この絵葉書に書かれた文章がどのような波紋を描いていくのか、たぶん何も起こらないだろうけれど、空想の中では様々な事件を引き起こしていくのだった。
後に、この知人から絵葉書の感想をもらうのだが、精神的に危ないような状況に感じて大丈夫だろうか、心配したと言われたことを思い出す。
確かに、そんな精神状況だったかもしれない。
目的もなく、やることさえわからずに、ただ日々、時間という流れの中で流されるように生きていた。
高千穂駅に到着したときは、すっかり薄暗くなっていたが、東北生まれの私にとっては、空気自体が違って感じられた。
よく知られているように、高千穂は日本神話のふるさと、天孫降臨の神話で有名で、各所に観光名所がある。
ただ私は旅人であっても、観光名所を巡り歩くような趣味はなかったので、ねぐらを決めてぼんやりとあたりを歩いただけだった。
といっても、今ではどこをどう歩いたのかはほとんど覚えていない。
その意味では、もったいない旅ではあったが、おそらく自閉症的な病を抱えていたので、どこへ行っても同じだったろうと思う。
なるべく人気のない方を歩いていたので、気づいたときには、峠の道をとぼとぼとたどってていた。
立ち止まって振り返ると、高千穂の町の灯りが点々とついていて、ふと胸が突かれたような思いがこみあげて涙ぐんでしまった。
なぜ自分はここにいるのだろう。
ここにいてもいいのだろうか。
そんな思いでいると、次から次へと寂しさや悲しさが浮かんでは消えた。
そして、そうした思いの中で、ふと太古の昔に、ここに降臨した神々のことが心の中によぎった。
当時の私は、まだ古代史にはそれほど関心がなく、知識もそれほど無かったので、旅の途中で高千穂に来たのは偶然のようなものだった。
だが、その高千穂の山道で、私はなぜかこの日本の国の礎となり、この国土を愛した神々の姿が浮かんでは消えた。
もちろん、その思いは連想のような、夢のような、直観的なもので、確固としたものではなかったけれど、導かれるようにこの地を踏むようになったのは、意味があったのだ、という思いが強くこみ上げた。
なぜかはわからないけれど、こんな私でさえも生きていていいのだ。
そんな感じがした。
私は峠から見下ろす町の灯、そしてその大自然の中で、一点、あたたかな光に、なぜか満たされいくのを覚えた。
道を下りながら、私はまたこの地にいつか戻って来たい、そんな風に感じていた。
今から思うとなぜそんなふうに思うようになったのか、暗雲のように心に占めていた雲の影が消えていったのか、理論的には説明できない。
ただ、旅には、自分の中、血や肉体、細胞に至るまで積み重ねられてきたDNAの声無き声を呼び覚ますものがあるといっていい。
残念ながら、コロナ禍もあって、今は自由に旅できるような状況ではないが、いつかまたあの高千穂の里、その空気を吸い、そこの自然の声を聞きたい気持ちがある。
おそらくその声は私の先祖の声でもあるだろうと思う。
(フリーライター・福嶋由紀夫)