福ちゃんの福チュモニ(2016.3.21)
「私(나)と他人(남)の差は」
「他人の子も我が子と同じ愛の手を」というスローガンが随分前の交通標語にありました。自分の子と他人の子と同じように愛しましょう。という意味の標語が出るくらい自分の子と他人の子に対する態度が違うからそのような標語がでたのだと思いますが、他からお嫁さんを貰ったりすると「嫁姑の葛藤」があったりするのも我が子のように愛せず、やる事成す事が憎たらしく思うからなのでしょうか?
幸い韓国に嫁いだ私は、嫁というより娘のように姑が対してくれたのでそんな葛藤も無かったのですが、因みに韓国語では私の事を「나」(ナ)と言い、他人の事を「남」(ナム)と言うのですが、他人の子と自分の子の差を考えていたら、ふと남の文字からㅁ(ミウム)を除けば나という文字になるなと思いました。そしてミウムの発音が、憎しみの意味である미움(ミウム)と似ていることを思った時に、「他人と私」の違いはミウム(憎しみ)の一言が入っているか、いないかの違いなのではないかと思ったりしました。