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秋は物思いにふける季節である

 なんということもなく、憂鬱になりやすい気候というものがある。

 春夏秋冬でいえば、春のけだるさが終わって夏前の草木が繁茂する季節、五月のさわやかな風が吹き始めると、どこか気が抜けたビールような頼りなさを感じたりすることが多いのである。

 季節の中のエアポケットのような時期、それはまだ何事も決まらないモラトリアムな気持ちを掻き立てやすいのかもしれない。

 五月病や六月病というのは、ある意味で適応不能な気持ちの切り替えができない状態を指し示しているといっていい。

 要するに、幾度か書いたが新入学や新入社員が新しい人間関係の組織になじめないモラトリアムの宙ぶらりんな気持ちといっていいだろう。

 人間は、家族関係や学校関係、地元の人間関係など、今まで培ってきた組織的な網の目から落ちてしまったかのような戸惑いと期待の中で、寂しさや温もりを求めて精神的な再構築を築く前のためらいや恐れの中にいて、いうに言えない不安感を覚えているのである。

 これはだれしもが通過する精神的な成長過程の一段階の門をくぐるようなもので、その意味ではとりわけ珍しいものではない状態である。

 といっても、これは周囲から見た風景であって、本人にとってみれば他人ごとではない状態なので、そんなに悠長に考えていられない。

 泳げない者が川で溺れたようなもので、その時期を越えるハードルは意外と高いのである。

 いずれにしても、季節ごとの変わり目には、そうした精神的な落ち込みを感じるときがめぐってくる。

 秋の場合は、春から夏への成長期の過剰なエネルギーをコントロールできないようなものではなく、精神の中に充満していたエネルギーが風船のしぼむように薄くなっていくような不安や気鬱さといっていいかもしれない。

 草木が夏から秋にかけて花を咲かせ、種をはぐくみながら実をむすぶ。

 そのあとは、実に吸い取られた草木が水分や栄養分の濃度が低くなって枯れ始めていく。

 そうした役割を終えた後の老衰のような状態、枯渇した沼地のような何とも言えない寂しさを感じる時期でもある。

 これは春から夏の鬱が成長過剰に追いつけない精神的な成熟度のストップや落差によるものだとすれば、秋はまさに役割をすべて終えたのちの虚脱感のようなものがあるから寂しい気持ちになるのかもしれない。

 草木の成熟は、すなわち死へ向かうジャンプのための時期であり、世代交代の交差する時期でもあるのだ。

 だからこそ、秋の木々の紅葉を見ていると、美しいということと同時に悲しさや哀れさを感じるのかもしれない。

 死を前にした最後の輝き、滅びていくがゆえに美しい姿をそこに感じる。

 桜の花に日本人が感じるのも、花の中でも桜の開花があまりにも短いからではないだろうか。

 潔いという見方もできるだろうけれど、それよりも一生の生と死を凝縮したような生命の花火に心打たれるのではないだろうか。

 美しいものは、絶頂であり、到達点であり、それ以降の成長はない。

 そう思うと、自分の人生の縮図のような、走馬灯のような人生のはかなさと寂しさに魂が震えるような感動を覚える。

 だが、桜の花が散っても、実際にはそれは物事の終焉を意味していない。

 その後、葉が繁茂し、生命の賛歌を歌うのである。

 だから、桜が散っても、悲しい寂しいという気持ちで、ある意味では鑑賞し楽しむことができる。

 命の連鎖をそこに感じるからである。

 日本人が大和魂というものと桜の花を結び付けたのも、そうした生と死の祝祭、饗宴を重ねてみるからだろう。

 だが、秋の草木の終焉はそうした生命の持続性を感じることはできない。

 紅葉した草木は、その最後の生命の輝きである葉を落とし、いったん死という時期に入るのである。

 もちろん、死というのは比喩的な意味であって、草木自体の生命は次の世代とバトンを交換するために仮死状態に入っていく。

 個としての生命が終わって種という次の世代に希望を託していったん大地へ枯葉となって落ちていく。

 個としては、父母なる草木から切り離され、その生命の連鎖から外れしまうことは間違いない。

 枯葉は大地の上で、コンクリートのような人工的なものではないかぎり、微生物によって分解され、土壌に溶け込んでいき、次の世代の栄養となっていく。

 広い意味から考えれば、地球環境という壮大なシンフォニーの中で、また新しい生命を準備する小さなパーツとなってサイクルの中でよみがえる。

 そう考えてもいいだろう。

 だが、そのような壮大な自然の中で、パスカルのいう考える葦であるわれわれ人間は、個として人生の終焉がそのまま消えてしまうような寂しさを覚えるのである。

 草木が実をむすび、紅葉し、枯葉となって一生を終える。

 そうした人生の終わりを感じて、むなしいような、何かがしぼんでいくような空虚さを感じて、ため息をつく。

 そうして、秋は寂しい老人が公園のベンチで日向ぼっこをしながら、人生の終わりをしみじみ感じながら、心身の衰えと未来の見えないことを気にしながらぼんやりとして昔を懐かしむ。

 秋はかくして人をして詩人のように物思いにふけさせるのである。

 (フリーライター・福島由紀夫)

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