茹だる様な暑さの真夏日の前日とはうって変わって、7月17日当日朝の天気予報では雨模様という予想であったが、小雨がパラつく程度であった。34名の歴史探訪愛好家たちが集った。毎週金曜日に大阪市営地下鉄・ニュートラム・バスを600円で一日乗り放題できる“ノーマイカーチケット”を利用し、探訪コースを設定した。一行は大阪歴史博物館からスタートし、難波宮跡公園、鵲森宮神社、四天王寺を訪ねた。
大阪歴史博物館を見学
「巡る、感じる、考える。」 都市おおさかの歴史体感スポット。10階建ての近代的な建物の中には、古代のロマンが一杯詰まっていた。一行はまず2Fの研修室で大阪歴史博物館の学芸員による説明を受け、館内のみどころについて概要を伺った。
【学芸員による説明】
その後、10F「古代フロア」には奈良時代の難波宮の大極殿が原寸大に復元された空間が広がっていた。1300年前にタイムスリップした様であった。直径70cmもある朱塗りの円柱が整然と並んでいた。冠位を表す礼服に身を包む都に仕える官人たちの等身大の人形が当時の宮中の様子を再現してくれていた。また、自動的に窓のブラインドが上下し、CG技術が駆使され、巨大なモニターは当時の様子を色鮮やかに描き出してくれ、圧巻であった。10階の窓の外は、難波宮跡公園が眼前に見下ろせる最高のロケーションであった。大阪城にも近く、綺麗に見える。
学芸員の案内にもあったが、建物の地下には遺溝が見学できる空間が広がっていた。20分ほどで見学出来るコースでボランティアの方がガイドを務めてくれた。
難波宮跡(なにわのみやあと)公園を歩く
昼食のお弁当に舌鼓を打ち終えた一行は、博物館のすぐ近くの難波宮跡公園を歩いた。大化改新(645年)後に都として創建された前期難波宮跡、また副都として大きな役割を果たした後期難波宮跡が中央区法円坂一帯にあることが明らかになっている。大極殿を中心におよそ1km四方に広がる規模だったと言われている。大極殿の礎石群が残っており、周囲は「難波宮跡公園」となっています。孝徳天皇の宮跡を天武天皇が引き継ぎ、さらにその上に聖武天皇が宮を築いたと推定されている。
難波宮跡公園の北側を東西に通る阪神高速道路東大阪線は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用されたためである。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう、地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっている。
鵲森宮(かささぎもりのみや)
鵲森宮(かささぎもりのみや)は、大阪府大阪市中央区にある神社である。式内社で、旧社格は県社。通称を森之宮神社(もりのみやじんじゃ)といい、周辺の地名である森之宮の由来となっている。1400年前にもその名が記されている由緒ある神社。聖徳太子命名の亀井水碑もある。
かつては威勢を振るっていた広大な境内地も、小社と言った方がよく伝わる佇まいに鎮守されていた。近くまではよく通りかかっているところであったが、これまでその存在に気付かなかったくらいである。小さくも1400年以上守り続けられてきたお社には、威厳を放っていた。社務所で小さな冊子を頂いた。鵲森宮の宮司を務める石崎正明氏の著書であった。美しい日本語、日本文化の大切さを訴えておられる。
祭神
聖徳太子の両親である用明天皇・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后、および聖徳太子を主祭神として本社に祀り、奧社に天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る。
歴史
聖徳太子は物部守屋との戦いの戦勝を祈願し、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。戦勝後の崇峻天皇2年(589年)7月、まず両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺(元四天王寺)を創建した。四天王寺はその25年後に現在の荒陵山に移転したが、当社はそのままとされた。
『日本書紀』の推古天皇6年夏4月条に、聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤金(きしのいわかね)が、2羽の鵲(かささぎ:かつて韓国で国鳥の候補にもあがった鳥であり、幸福を知らせる吉鳥と言われる「カチガラス」)を持ち帰り、難波の杜で飼ったという記述がある。
その「難波の杜」は当社の森であるとされることから「鵲の森」と呼ばれるようになり、ついには当社の社名となったと伝える(「難波の杜」は、他に生國魂神社なども比定地となっている)。元の四天王寺とも言われる江戸時代の地図を見ればそれがわかる。
上記が江戸時代の地図である(無名氏考証 難波古絵図 市立中央図書館蔵)。
創建壱阡四百年記念誌『かささぎ』には多数掲載がある。
和宗総本山 四天王寺(わしゅうそうほんざん してんのうじ)を参拝
四天王寺は、大阪市天王寺区にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音(ぐぜかんのん)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)とも言う。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されている。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。宗派はもと天台宗に属したが、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立宣言を出している。
一行は、中心伽藍、本坊庭園、宝物館を拝観した。歴史と伝統の重みを持つ、さすが聖徳太子が直接創建に関わったたった二つの寺院のうちの一つだけのことがある。今回、あまりにも近くにありながらも、これまでその価値があまり分からずにいた歴史遺産であったという印象を受けた。かつて難波(なにわ)と呼ばれた大阪の地を改めて誇りたいと思う。
創建に関わる異説
当初の四天王寺は現在地ではなく、摂津の玉造(大阪城付近)の岸辺にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(森之宮神社の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしている)。
また、山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。
大阪にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」「小帝塚山」地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学の敷地内にあったと言われている。
また、東高津神社は、仁徳天皇の皇居であるとする明治31年(1898年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
なお、20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。また、上記の『書紀』の記述とは別に、四天王寺は渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)氏の氏寺であったとする説もある。
以上