秋の長雨がやんだ9月26日、「賢仁会」の一行は近現代から中世、古代に到る日本列島に於ける歴史探訪の一環として、日本海に面した丹後半島を訪れ、海の波濤を越えてこの地にやって来た渡来人たちの地に根付いた素晴らしい努力と心根に思いを馳せました。
大陸や半島と交流が盛んにあったと思われる「丹後王国」の成立から消滅、そして丹後国誕生までを常設展示しています。上記の写真は、発掘成果を元に弥生時代の集落跡が復元されています。
竹野川と海とが接する海岸の東側の切り立った崖の上に築かれています。横穴式石室を内部主体とする古墳が13 基見つかっています。
聖徳太子の母・間人(はしうど)皇后は、6世紀末、大和政権の蘇我氏と物部氏との争乱を避け、今の丹後町間人(たいざ)に、子の厩戸皇子(後の聖徳太子)とともに身を寄せたと伝えられています。
村人たちの手厚いもてなしへのお礼にと、この地を去る際、皇后は自らの名「間人」(はしうど)をこの地に贈りました。しかし村人たちは畏れ多いことから、皇后が退座したことにちなみ読み方を「たいざ」としたとされています。 (一般社団法人京丹後市観光協会HP より)