日本の古代史で、最近、縄文時代ブームとなっている。縄文時代に関する展示会や本の出版、そして、縄文時代の土器や土偶を愛する「森ガール」や「刀剣女子」「歴女」といったたぐいのキーワード「縄文女子」なる言葉さえあるそうだ。
このところの縄文時代の関心の高まりは、いろいろな原因があるだろうが、その一つとして、日本の自然観の背景にある稲作文化の基層に脈打つ、1万年という長期にわたった縄文時代への再評価、その重要性について気づき始めたということがある。
日本文化というと、稲作を中心とした弥生文化、すなわちネイティブの縄文人と渡来系の弥生人の共生と混血、そして、独特な日本文化が生まれたという観点が主流を占めて来た面がある。
すわなち、それは日本文化が縄文時代ではなく、その源流となったのは弥生時代から来ているという観点が主流で、そのためにそれ以前の縄文時代が軽視されて来たということでもあるだろう。
そのことは、日本の由来を語る神話体系である古事記・日本書紀神話で、そこに現れた神々は、どうしても縄文系の神々の存在感が薄く、渡来系の稲作民族による天孫降臨神話を軸とした性格があることからでも理解できる。
たとえば、記紀神話におけるスサノオの農耕儀式とかかわる罪を犯したことが追放の原因となったこと、ニニギノミコト(邇邇芸命)の天孫降臨にしても、稲作の実りを象徴した名前であること(ニニギとはイネが熟することを意味)からも理解できる。また、神武東征にしても、奈良盆地が豊かな稲作が耕作可能な土地であったという理由を挙げていることもある。
王権の確立は、こうした豊かな土地の獲得へのプロセスであり、それが歴史的にコメの生産の高い土地への執着、その争いの連続であったことを考えれば、日本文化が稲作を中心とした文化習俗が中心であったことは否定できない。
しかし、縄文時代がまったく弥生文化に飲み込まれて消えてしまっているかというと、それもまた違う気がする。記紀神話に登場する神々にしても、国土神、国つ神の中には、そのまま縄文神としての性格を持つ神が隠れている可能性がある。
その神々を特定することは、記紀神話などによって性格が変わっている面もあるので難しいかもしれないが、少なくとも、巨石信仰や大樹信仰などが多い縄文遺跡(三内丸山遺跡など)にかかわっていることは間違いない。
特に、諏訪大社の御柱祭り、その背景にある出雲の大国主命の子神であるタケミナカタの神が天つ神に敗れて諏訪まで逃げたという神話は、縄文神の敗北と地方定着、勝者である天つ神との共存への道をたどった経緯を示しているとも解釈できる。
作家の司馬遼太郎はかつて、縄文時代の青森県などの東北地方が当時の世界では、先進文化を持ち、豊かな土地であったという指摘をしていたことを思います。
何しろ1万年間の文化というのは、原始的な生活と無文化とは考えられないほど、縄文土器の完成度の高さ、そして、漆塗りの技術が当時あったこと(特に北海道では大陸の漆塗りよりも古い時代に遡り高度で技術的に高かったという発掘品からの指摘がある)などを思えば、かなり高度な文明を誇っていたことは確かだろう。
従来の日本歴史における常識、弥生時代から大陸から先進技術が渡って来て、狩猟採集社会で文化が無かった縄文人に先進文化を教え、先進技術による農耕を初めて教えた(これは縄文農業の発見によって否定されつつある)というステレオタイプな見方は訂正される必要があるだろう。
縄文土器のブームにかつて火をつけたのは、画家の岡本太郎である。火焔土器を見て、「芸術は爆発だ」というコメントをしたとかしなかったとか。確かに、岡本太郎の芸術観には、縄文土器の持つ原初的なエネルギーの爆発と共通するものがあるかもしれない。
といっても、岡本の「爆発」には、ピカソなどが、アフリカの偶像に対して感じたものと同じ、時代閉塞を打ち破る新しい可能性、すなわちインスピレーションを感じたということで、そこにはキュビズムやニューウェーブにつながる起爆剤としての感動・発見といっていいだろう。
その意味で、縄文土器やアフリカの偶像が美的で芸術的完成度として美術品として評価したというよりも、芸術の停滞から次の段階に進むためのきっかけ、思想運動の中の評価、衝撃を与えたといった面が強いのではないかと思う。
そのあたりは、浮世絵から影響を受けてフランスの画家たちが、新しい技法をそこに認めて印象主義という絵画の改革運動を出発していったことと似ているかもしれない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)
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