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老後の鬱屈を吐き出した松浦静山

 著述業を仕事にしているライターの中には、書きたいことがいっぱいあって、どれを書いたらいいか、迷ってしまうという人がいるらしい。 

 また、作家の中でも、書きたいテーマや小説がありすぎて、短い生涯ではそのすべてを書ききれないので残された時間との闘いで悔しい思いをしているというエッセーを読んだことがある。 

 自分と比べて、どちらもうらやましい限りである。 

 それを知ったときは、最初はウソだろうと正直思ったほどだ。 

 なぜなら、私は、そんな気分になったことはほとんど一度もないからだ。 

 何かを書かなければならない時は、常に儀式のようにしていることがある。 

 すなわち、何もない脳内の空間に手をつっこみ、何かないかとアイデアを探す。 

 だが、そうそういいアイデアは浮かばず、常に脳のシナプスがショートしてしまうのではないか、とまで気に病むだけで、それでもなかなかアイデアが浮かんでこない。 

 パソコンの画面を見ながら、さすがに頭をかきむしることはしないけれど、ずっと座り続けながら考えている。 


 といっても、書くべきテーマについて考えているわけではなく、パソコンの画面を見たりしながら、茫然としているといった方がいい。 

 そんな姿を他人が見たら、何を遊んでいるのだろう、仕事をしろよ!と思われるかもしれない。 

 それほど何もしていないことが多い。 

 いや、何もしていないのではなく、正確に言えば、パソコンに文字を打ち込んで仕事をしている姿勢がほんどなく無為に過ごしているように見えるのである。 

 実際、コーヒーを飲んだり、音楽を聴いたり、時には棚の本を取り出しては拾い読み、時にはネットサーフィンではないが、気になるユーチューブのチャンネルを検索しながら、見るともなく眺めている。 

 まったく何をやっているのか、と自分でも思うのだけれど、書けないのだから仕方がないと弁明している。 

 この無為に見える時間が無くなってしまえば、実に効率的に仕事がはかどるだろうと思うけれども、人間の精神的な働きは合理的にはできていないので、毎回、同じようなことを繰り返しながら、この文を書いているところである。 

 こうした私から見れば、精力的に仕事にバリバリと取り組んでいる人間はうらやましいばかりではなく、驚異でもある。 

 そんな人物に江戸時代の後期に活躍した松浦静山という人物がいる。 

 この人物は、れっきとした大名の殿様だったが、はやばやと引退して老後を楽しみ、膨大な著述をして後世に残している。 


 それが、『甲子夜話』という随筆集で、肥前平戸藩主を47歳にして隠居し、その後、約40年近く生き延びて珍談・奇談・逸話などを書き綴った。 

 その内容も、将軍大名の逸話から狐狸妖怪の奇聞まで、ありとあらゆる説話を記して倦むことがなかった。 

 現在、そのほとんどが刊行されているが、正編100巻だけでも、平凡社東洋文庫の6冊の本になっているほどで、ウイキペディアで見ると続編などを合わせると約20冊(巻)にも及ぶ。 

 こんなに大部な著作をしていると、隠居していても、退屈をしている時間などなかっただろうと思うほどである。 

 ふつうは、隠居すると、することがないので、かなり老けてしまうのだが、静山のように著述をしていると、その情報の収集に時間や金を投資しないとできないだろう。 

 殿様だったので、資金の余裕があったのだろうけれど、それでも、当時流布していた本を集めて読み、そこから気になったものを抜粋して書き記すにはかなりの時間がかかったはずだ。 

 しかも、過去の珍談・奇談を集めるだけならそれで済むが、当世の話になると、どうしてもそうした話を知っている知人や友人、その他の情報屋をつかまえて、その話を聞かなければならない。 

 なので、書斎に引き籠って著述ばかりしているわけにはいかない。 

 豊富な人脈と交際、そして、話しやすい開放的な人柄といったものが、隠居した大名とはいえ必要になってくる。 

 そうすると、静山はかなりアクティブでどん欲でなければ、途中で挫折していただろうと思う。 

 そんな静山がなぜ47歳で表舞台から引退したのか。 

 もちろん、当時の年齢では老人に近いが、それでも死に至るような重い病気をしたわけでもなく、かなり壮健な状態での隠居だった。 

 そのあたりの事情は、氏家幹人著『悠悠自適 老侯・松浦静山の世界』(平凡社)を読むと、よく理解できるが、結論を言えば失意の隠居だったらしい。 

 要するに、これは静山にとっては本意ではない不本意な隠退、長く悔いの残るものだったのである。 

 静山が隠退した理由は、表向きには病気がちで公務に耐えないというものだったが、それよりも、幕閣で出世したいという青雲の志が挫折したことが大きい。 

 静山は政治的な野心があったので、幕閣で活躍をしたいと思って、猟官運動を盛んにし、幕府上官にも賄賂や贈り物をするが、はかばかしい効果はなかった。 

 その事で心理的に気落ちしてしまい、それが溜まって鬱屈した思いがわだかまっていた為に隠居という挙に出たのである。 

 その上、静山の同僚や指導した後輩の殿様が、隠居した静山が喉から手が出るほどほしがっていた地位や名誉を得るという現実を見せつけられた。 

 静山にとって隠居は悔いが残る決断だったので、そんな現実を見せつけられて、思わずグチや嫉妬に苛まれた。 

 その思いのはけ口が、『甲子夜話』という膨大な著作、ある意味では殿様の道楽とは思えないほど、様々なエピソードや出来事が書き留められるようになった原動力かもしれない。 

 隠居して悠々自適に自然とともに生きるというような枯れた心境ではなく、悔しい思いや鬱屈した感情を吐き出すためだったのである。 

 様々な出来事や珍談・奇談を集めて記録していくという自分に課した日々の仕事が必要だったのだろう。 

 そう考えると、私のように書けないというのは、それほど書きたい思いがないということかもしれない。 

 そう思うと、寂しくなってしまうが、それでも、おそらく心の底に誰にも言えないような鬱屈した思い、恨のようなものがある気がしている。 

 なぜなら書くことを止めたいと思ったことは一度もないからである。 

 その恨が何なのか、それを知るためにも、今後も、もだえ苦しみながら書き続けなければならないと考えている。 

 (フリーライター・福嶋由紀夫) 

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