日本では、あの世の世界については、浄土と地獄というふうに表現されている。
浄土はキリスト教などでいう天国、地獄はそのまま同じ意味と受け止めていいだろう。
浄土については、仏教については詳しくないせいか、どのようになっているのかは漠然としたイメージしかない。
ただ平和で豊かな実りに満ちて、幸福な世界ということだろうか。
それに比べると、地獄はリアルで、目に見えるような世界である。
仏教の地獄では、エンマ大王がいて、死者の生前の行いを審判し、地獄の刑罰の判決を言い渡す。
刑罰であるがゆえに、死者たちは血を流す苦痛と痛みでのたうちまわり血の涙を流す。
おぼろげながらだが、血の池地獄、火山のマグマのような熱湯地獄、針が突き刺さった山を歩かせられる針の山地獄など、これでもかというほど具体的で、それこそホラーや怪談のような世界が説かれている。
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特に、地獄絵図がお寺さんには秘蔵されていて、それを見て地獄に落とされないように善行を勧める絵図になっている。
だから変にリアルで、変におどろおどろしい絵画である。
少し前だったか、この地獄図の絵本がかなり話題になってベストセラーになったことがある。
地獄の絵本など、子供が見たら引き付けと起こしトラウマになってしまうのではないか、と思ってしまう。
その恐怖心を植え付けることで、悪いことをしないようにしつけする効果があるのだという。
確かに、恐ろしくさせて教育するという面は効果があるかもしれないが(秋田県のなまはげなどの習俗は、そのような子供のしつけの意味があった)、今はどうだろうか。
恐怖によって支配するというのは、独裁国家ではよくあることだが、やがてそれが沸点に達すると、それを打倒する革命運動が起こったりする。
恐怖政治は、表面的には効果があるように見えるけれど、深層では憎悪や恨みを内蔵させ、それが沸点まで高まれば噴火のように爆発する。
それは歴史を見れば明らかである。
その地獄のリアルさに比べれば、浄土や天国はどのような世界かはイメージしにくい。
いったい浄土や天国はどのようなところなのだろうか。
浄土を希求した平安時代や鎌倉時代ならば、現世自体が地獄のようなものだったので、その世界から逃れられる世界、殺し合いや煩悩から解放されて幸福に暮らせる世界と考えるのは普通だろう。
そのあたりは、平安時代の貴族文化の背景になった地獄のような庶民社会、飢餓や病気で亡くなった死体がごろごろと道にあり、いつ死んでもおかしくない状況だったので、そこから浄土を望むのは自然である。
また、鎌倉時代には、武士の世界は親兄弟でも土地を奪い合い、殺し合いことが珍しくなく、しかも刀や弓矢の武器で殺し合いをすることも日常茶飯事だった。
そうした殺伐とした時代に生きていれば、生きることの虚しさ、虚無感、救いを求めるようになるだろう。
浄土や天国は、地獄のようにリアルに感じられるものではないが、そういう世界があれば、そこにいって無常観を覚えることなく、幸せに暮らせるという信仰の念が強くなっていくのは当たり前になる。
当時の人間にとって地獄は生きている世界の延長として身近に感じたから、リアルにイメージすることができたのである。
それは仏教だけの事柄ではなく、キリスト教世界でも変わらない。
地獄のリアルさに比べると、天国はどこか抽象的で理想世界という観念的なイメージが強い。
昔から不思議に思っていたことに、聖書における地上の天国が成就した世界である。
そこでは具体的に戦争の道具であった刀や槍などの武器は打ち換えられ、農作業の鎌や鋤になると記している。
天国は平和な世界なので、相手を殺すための武器は必要ではなくなるので、これは十分にありうるリアルな記述である。
ところが、不思議に思うのは、平和が実現された世界では、肉食獣と草食獣が共生するという話がある。
ライオンもシマウマやガゼルやその他の草食動物を食べないというのだが、これは理性的に考えても、どうだろうかと思う。
牧師のホームページでは、それが実現することとして、もともと人間が堕落していなければ、ライオンも草食だったと解説している。
理想論としては理解できるが、現実的には無理がある気がするが、どうだろうか。その牧師はライオンの牙は硬い葉をかみ切るためのものだともしているが、ちょっとばかり首をひねってしまう。
(フリーライター・福嶋由紀夫)