風薫る季節になると、感傷的な気持ちになることが多い。
これまでの人生を振り返って、色々と思い出したり、懐かしんだりする。
季節の変わり目だからだろうか。
この季節には精神的な悩みによって軽いうつ病になる時がある。
「五月病」と呼ばれるもので、主に新入学生や新入社員が、新しい環境に入ってからかかる精神的な病で、5月や6月がその季節になる。
新しい環境になじみ始めたときに、ふっと自分の目的や生き方への疑問が生まれたり、適応障害などが起こって来る。
それで、どうしたらいいか、空白感や寂寥感を覚え、あるいはアイデンティティが分からくなって、どうしたらいいのかわからくなってしまうのである。
ホームシックなどもこれと似た症例かもしれない。
一つの通過儀礼というべきものだろうが、まじめな人ほど、こうした症状にかかりやすい。
私自身、これまでの人生で、何度かこの症状に捕らわれたことがあり、特に大きかったのは大学へ入学してから、自分は何をしに大学へ来たのだろうか、と精神的な落ち込みを感じた時である。
結局、当時は大学紛争などがあって、約1年間学校へはまともに通っていなかった記憶がある。
その時は、アパートに籠っていたが、考えてみれば、そうした状況が長く続いたために、卒業まで6、7年ぐらいかかっている。
一種の黒歴史だが、そうした状態になる背景としては、中学時代の体験というか、事件がきっかけになっている気がする。
私は小学校時代は、割合ふつうで活発な方だった方だったと思う。
落ち着きのない子供で、教師の話などを聞き流して、友人と話をしているような悪ガキ的な子供だった。
それが先生の目に余ったのか、突然、先生に目をつけられ、「お前は不良だ!」と怒鳴られ頭を思い切りはたかれた。
ごつんという音が響き、一瞬、教室がシーンとなった。
いったい何が起こったのか。
私は訳が分からなかった。
見上げると、鬼のように真っ赤になった教師が私を睨んでいた。
新入学してはじめの顔合わせの時だったこと、大人にはたかれることなどなかったことなどが重なって、人生が変わるような精神的なショックを受けた。
以来、性格的に人とふつうに顔を合わせて話したりすることがいやになり、自分だけの世界にこもるようになってしまった。
と今では割合突き放して他人事のように書けるようになったが、このトラウマはその後、ずっと人生を支配し、その呪縛から解き放たれるのは、ずいぶん後のことである。
その事件以来、私は本の世界に引きこもるようになって、図書館で毎日こもり、借りてきては部屋の中で読みふける生活をするようになったといっていい。
その本の中でも気に入っていたのは、昆虫の生態をなめるように観察した記録をつづった『ファーブル昆虫記』である。
この本には、人間関係の話はまったくといっていいほど出てこない。
出てくるのは、ひたすら昆虫の生態を観察する目が記録した世界である。
もともと昆虫は好きだったので、毎日少しずつ読み進めるのが楽しみであり、学校から帰ると、部屋に閉じこもって読んでいた。
興に乗ると、朝方まで起きて読んでいたこともある。
ある時、父親が怒って部屋に来て、電気を消して「もう本は読むな!」と怒鳴られたことがあるほどだった。
本ばかり読んでいないで、勉強をしろ! ということだったかもしれない。
だが、私はそれでもこそこそ本を手放さずに読んでいた。
現実の世界にはまったく関心がなく、ただ、本の世界がもう一つの現実だった。
この時は、ただ本を選ばずに乱読していたので、『ファーブル昆虫記』以外、いったいどのような本を読んでいたのか、あまり記憶がない。
やはり読書が一種の現実からの逃避的な面があったからだろう。
ふつうは、『ファーブル昆虫記』などに熱中すると、自分でも捕虫網を買って、野山に昆虫採集をしたりするものだろうが、私の場合、野外に行くことがなく、家の中で完結していた。
もちろん、夏休みなどで、母方の実家に泊まり込み、カブトムシやクワガタムシの採集に熱中した時期もあったが、根気は長くは続かなかった。
やはり野外で、人と接することへの忌避感があり、家でできること、読書やゲームなどで過ごすことが多かったように思う。
こうした一種の現実逃避から脱出したいという思いは、ずっとあったため、故郷の環境から離れる事、特に大学入学をきっかけにして東京に行けば、新しい自分になれるかもしれない、という願望があった。
何の根拠もない願望だったが、東京に行けば、自分は新しく生まれ変われるといった思いが強くなって進路を変更した。
そのために、高校卒業と同時に、就職してもいいと思っていた考えが変わり、絶対入学したいと思って受験勉強に取り掛かった。
その時は、既に高校3年生になっていたので、既に遅かったかもしれない。
とはいえ、大学にただ入りたいという漠然とした思いと、学ぶならばキルケゴールの研究の第一人者がいる私立大学へ行きたいという思いがあった。
突然、キルケゴールという哲学者の名前が出て申し訳ないが、この時は、哲学をやりたい、しかも実存主義、サルトルやカミュに傾倒し、そして、キルケゴールに心を奪われるようになったことを覚えている。
とはいえ、キルケゴールをどの程度理解していたのかは今から思うとはなはだ疑問で、おそらく、『誘惑者の日記』や『死に至る病』などを読んで、少しばかり何かわかったような気がしていたぐらいだったろう。
だが、結果はその大学へは行くことができなかった。
それが良かったのかどうかはわからない。
ただ、高齢になってみると、人生には無駄なことがない、すべてはなるようになっているという感慨になるのは確かである。
木々のみどりあふれる中で、ふと人生で今が一番幸せかもしれないと思うことがある。
それで十分ではないか、と。
(フリーライター・福嶋由紀夫)