芸術家における人間性の光と闇
文芸評論家の小林秀雄が、同時代の文学者などの評価について語ったエッセーがある。印象的だったのは、死んだ人間に比べて生きている人間の評価は難しいと述べている文章である。
「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。…其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(「無常という事」)
このやや皮肉でレトリックに満ちた文章は、小林の持ち味ではあるけれど、一種の真実を述べている。要するに、人間の本質的な評価は生きている間は基本的にできない、ということである。
生きている人間は、現在の状態である一定の評価を下しても、その後の人生において、それまでとは違った生き方や行動をするかもしれない。実業家であれば、現在、巨万の富を持っていても、将来は経営に失敗して無一文の乞食になる可能性もある。
思想家だって政治家だって、その信条や信念を変えてしまうことがないではない。生きている人間は、そのように固定した観念で捉えることができない存在である。
それを踏まえれば、生きている人間の評価は不可能になってしまうが、ただ同時代の人々の証言や資料は、後世の人々にとっては、その人物の評価をするにあたっての貴重な判断材料になることだけは間違いない。
過去の芸術家の中で、天才が次々に生まれたのがイタリアのルネサンスの時代といっていいだろう。綺羅星のごとく、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの芸術家が出現している。
後世から見ると、これらの芸術家は、生きた神話のような存在だが、果たして同時代人にはどのように映っていたのだろうか。
このような関心を抱くのも、芸術家というのは、おおよその場合、その生み出した芸術作品の完璧性に比べて、作者の人間性に関しては、性格破綻者だったり、人格的に問題のある人物、強いて言えば、人間として決して尊敬できる存在ではないことが多い、ということがある。
これはまさに不思議な話だが、なぜ作品と作者がイコールの関係ではないのか、作品の魅力的な世界に比べて、人間性が下品だったり、金に汚かったり、人をだまして平然としたりできるのか。
そのあたりを考えれば、小林秀雄の言うように、生きている人間の不可思議さ、評価や判断が簡単にできないことがよくわかるのである。
天使のような笑顔の聖母を描いたその絵筆を持つ手が殺人者のものだったという例もある。作品だけを見ていると、迷わされ、わからなくなってしまうことが少なくないのである。
とはいえ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの作品を見ていると、そうしたことが消えてしまって、作品の世界に陶然としてしまうことも確かである。
果たして、この天才たちは同時代人には、どのように見えていたのか。その史料が残っている。
それは、イタリアで生まれた画家であり建築家だったジョルジュ・ヴァザーリ(1511~74)である。
彼は、同時代人を含む数多くの芸術家に関するエピソードや評伝を書き残していて、それを読むと、当時の芸術家たちの人間性や生活が浮かび上がって来る。
ヴァザーリは、当時の芸術家の多くが、やはり性格破綻者だったり、異常な狂気をもっていたことを指摘している。
「従来の芸術家はみな、たいてい自然から多少の狂気と狂暴さを身につけてきた。そのため芸術家たちは異常な空疎な人間となりがちだったが、それが原因で、芸術家たちはとかく、人間を不滅にする美徳の光輝を発揮する以上に、悪徳の暗い影と暗い闇とを世に示してきたのである」(ヴァザーリ著『芸術家列伝2』白水社)
要するに、芸術家のほとんどが、まともな人格を持っていなかったが、その作品は光輝を放っていたという矛盾に、ヴァザーリも気づき、それをどう考えていいのか、悩んでいたということだろう。
芸術家が美に近づけば近づくほど、それの反対に悪徳と偽善の誘惑にかられて狂気に陥り、善と悪の狭間で、苦悩せざるを得なかったのが現実だったのである。
ただ、そうした悪魔的な芸術家の中でも、例外的な存在がいたことをヴァザーリは証言している。
それが、聖母の画家・ラフアエロだった。ヴァザーリは、ラファエロは、天が一人の人間にあらゆる美と美徳を与えた稀有な例であり、「彼は天性、謙虚な善意の人であった」と述べているほど。
時として、天(神)は、こうした奇跡的な人物を世に送り出すことがあるということだろうか。ラファエルが若くして世を去ったが、その残した絵画は今なお美しい旋律を奏でている。
(フリーライター・福嶋由紀夫)