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読書に関するごく私的な一視点

 読書が趣味というと、どこか高尚な趣味のように思われるかもしれない。

 本を読んでいる姿を外から見ると、いかにも教養があふれているようなイメージがあるといっていい。

 だが、読書といっても読む本によっては、教養的ではないものもある。

 熱心に読んでいるからといって、それが中身の教養に結びつかないこともある。

 しかし、人間はどうしても、中身をよりも外形から判断しやすい。

 中身を知るには、時間がかかるためだが、本を読む姿はいかにも知的な営為をしているように誤解されるのである。

 本を読むことがそのまま教養につながるのか。

 果たして本を数多く読むことが、その人の教養になって知恵深い人になるのか。

 そのあたりは、疑問がある。

 もちろん、本を読まなければ教養を深めることはできないのだが、本をただ読むという行為とイコールではないのである。

 もちろん、そう思われても仕方がないのだが、本にもいろいろあって、それこそマンガから、雑誌、エンターテインメントなどによっては、必ずしも知的な栄養にならないことがある。

 実際、私が経験したことでも、そのことを裏付けるような目撃した光景がある。

 かつて私は、大学受験に失敗して、一時期、汽車で地元から離れた予備校に通っていたことがある。

 その汽車の中で、中高年の男女のグループと乗り合わせた。

 彼らは会社の同僚のようで、和気あいあいと周りの乗客を無視して笑ったり、大声でじゃれあったりしていた。

 その中の一人は、我関せずといった感じで、熱心に文庫本を読んでいたので、非常に目立っていた。

 メガネをかけた痩せ気味の高齢者の男性は、会話に加わらず、哲学者のような気難しい顔をしていたが、女性の一人が大声で笑いながら、

 「××さんは、まったくねえ、勉強熱心だねえ。いつも本ばっか読んでいるんだから、ほんと学者だねえ」とからかうように話しかけた。

 すると、その男性はにやりと笑うと、「そんなことはねえだ」といって手を振った。

 そして、本を置いてみんなの会話に加わった。

 その時、文庫本の表紙が見えたのだが、なんとそれはマンガの表紙で彩られた少女小説だったので、私は思わずギャーと内心で叫んでしまった。

 読んでいるときの顔は品があるように見えていたのだが、それが崩れて、下品な感じになってしまったからだ。

 むろん、少女小説を読んでいたからといって非難するつもりはない。

 私も読んだことがある。

 けれど、本を読んでいるという形だけで、「勉強家」や「学者」とからかわれる、あるいは思われるということはちょっと違和感を覚える出来事だった。

 そういえば、かつて読んだ哲学者サルトルの小説に、『嘔吐』という作品があって、そこに出て来る人物に、「独学者」と呼ばれる特徴的な登場人物がいる。

 この「独学者」はその名前の通り、学校に通うよりも、独学で知識を増やし励んでいる。

 そして、その独学の場が、公共の図書館である。

 図書館の本を熱心に読んで、自分の教養を高め、そして人にひとかどの人物と思われるように努力している。

 毎日、図書館に通い、そして、主人公の「私」にこれまで読んだ書棚を指して、この図書館全部の本を読み切ることが夢であると自慢げに話すのである。

 そこには、学問的に系統的に読むといったものはなく、ただ棚にある本を端から端まで読んでいて、それがいかにも凄いことであるかのように話しているのだ。

 図鑑もあれば事典もあり、小説もあればその他のものもある。

 それを乱読することで、何かを征服して、自分が人より優れた人物になったかのような錯覚を覚えている。

 そんな「独学者」に「私」は吐き気を感じて、激しい批判をする――そんな話だったという印象がある。

 要するに、知識が増えても、それを自分の血肉としないかぎり、それが物事を深く考えるという教養には結びつかないということ。

 それを小説を通して批判しているといっていい。

 そのことに関しては、哲学者のショウペンハウエルが鋭い指摘をしている。

 ショウペンハウエルの著書『読書について』(岩波文庫)には、「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく」という言葉がある。

 また、こうも言っている。

 「書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない。/我々自身の精神の中にもえいでる思想はいわば花盛りの春の花であり、それに比べれば他人の本から読みとった思想は石にその痕(あと)をとどめる太古の花のようなものである」

 要するに、本を読むだけで終わってはだめで、それを元に自分で考える思索の時間を持たなければならないということだろう。

 そうでないと、単なる本の内容を伝えるだけのスピーカーで終わってしまう。

 その意味で、サルトルの言うただ活字を眼で追うだけの「独学者」になってはいけないということなのである。

 実際に、ショウペンハウエルは、はっきりと「読書は思索の代用品にすぎない」とも述べている。

 改めて読書とは何か、ということを考えれば、ただ自分の知的な満足のためではなく、それが社会や人々に役に立つまで高めるものとならなければならない。

 少なくとも教養とは、自分のためだけにものではなく、社会に貢献するものとしていく必要がある。

 ただ、それは本のすべてが教養を高めるために難しい本だけを読まなければならないということではない。

 楽しみのために読むエンターテインメント的な読書も、精神の成長のためには重要であることは言うまでもない。

 そのあたりは、バランスの取れた読書が求められるのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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