夢は毎日見る。だが、目覚めた後、全てすぐに忘れてしまう。
これは以前書いたことがあるが、夢を記録している友人もいるが、私はほとんど記録しない。
それは、夢を何らかの意味があると思って心理学的に考えているわけでもなく、ただ、記録したとしても、それが意味があることだと感じないからだ。
とはいえ、すぐに忘れてしまう夢の中でも、しばらく鮮やかな記憶となって、目覚めた後にもしばらく引きずっていることがある。
最近見た夢も、そんな夢だった。
それは前後のことは断ち切れたシーンで、夜の街を歩いていると、閉店した店の中で、一か所明るい光を放つ店がある。
見ると、古書店だった。
古本マニアだった私は、新しい古書店を見つけると、どんなラインアップがあるのか、買うか買わないかを別として、とにかく時間があるかぎり、入ってみる。
その夢の中でも、私は店に入ると棚を見た。
その店は、両側が棚になっていて、明るい光に照らされた様々な本が背表紙を見せて並んでいた。
奥には、古書店の主人らしい中年の男性が空気のようにぼんやりと前を見つめている。
私は両側の棚を見ると、全集の端本や重圧な古典、そして、何やらたくさんの本がある。
その中で、私は、紐でくくられた平凡社東洋文庫の棚に魅入られた。
この東洋文庫には、以前から欲しい本があったので、夢に出たのかもしれない。
背表紙を見ていくが、ども欲しい本はないようだ。
少し気落ちして、ほかの棚を見ていると、分厚い背表紙の中に、「〇〇〇」といった金泥で文字が印字されたものがあった。
ふと気になって本を抜き出し、ペラペラと開いてみた。どうやら、朝鮮半島出身の学徒兵の記録というか遺書のようなものを本にしたものらしい。
中身を見て、欲しいと思ったが、価格が安くないので、躊躇していると、最後の見返しのところに少し膨らんだ封筒があり、どうやらそれはこの著者の手紙らしい。
時々、本の持ち主の貴重品や栞(しおり)代わりの名刺やメモ、手紙などが挟んであることがあるが、この場合は故人の書信のようだった。
それを見て、これは貴重な掘り出し物かもしれないと胸が躍った。
その後、この本を買ったのか、どうかはわからない。
ただ、心の中に買いたいという衝動が残っているので、おそらく買わなかったのだろうと思う。
だが、そのまま夢が続いていれば、おそらく銀行から金を下ろして買ったのではないか、と感じている。
古本の場合は、買いたいと思ったときに手に入れなければ、そのままになってしまう恐れがあり、後悔するなら、買うというのが私の性格だったからだ。
とはいえ、あまり高価な本は手が届かないので、財布との相談だが、それでも、貴重なものだったら清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったかもしれない。
いずれにしても、何らかの啓示や意味を夢に認めようと思ったら、いろいろな考察ができるかもしれないが、私は夢は夢としてそのまま受け止め、そして忘れるようにしている。
夢判断のような本も時々見かけるが、それを読もうとは思わない。
読んでしまうと、おそらくそれにとらわれてしまったり、卑俗な動機が根底にあったりして、夢を見ているときの高揚感などが失われてしまうからだ。
もちろん、夢には、楽しい夢ばかりではなく、ホラーのような恐怖を感じるものや命の危機を脅かされるようなものもある。
ただ、今回見た夢は、かつて私が取材した朝鮮半島出身者の特攻隊の人の話が背景にあるような気がする。
当時、朝鮮半島は日本の植民地下にあって、志願や徴兵で、学徒兵も動員され、そんな中で、特攻隊に志願した青年の話がある。
その青年は卓庚鉉(日本名・光山文博)といい、京都薬学専門学校(現京都薬科大学)を出て、特別操縦見習士官第一期生として、知覧の飛行場から飛び立っている。
出撃前夜に、特攻おばさんのとめさんで有名な富屋旅館の広間で、「ないか歌わんね」と言われて、飛行帽のひさしを鼻の下までおろして、顔を隠して表情が見えないようにして「アリラン」の歌を歌った。
アリラン
アリラン
アラリヨ
アリラン
哀調を帯びた歌に、とめさんは思わず顔を覆って泣いたという。
「おばさん泣かんでください。ぼくは誇りをもって往くんですから」
その誇りとはどう意味を持っているのか。
後に、その時の心境を、自分は日本人に朝鮮人の本当の肝っ玉をみせてやるつもりでいるというようなことを肉親の兄だったかに語っていたことを、直接、聞いたことがある。
要するに、誇り高き朝鮮民族の一人として、祖国独立のために、精神的な覚醒を願ってみずから死地へ向かったのかもしれない。
取材をしてから、もう30数年前の話である。
忘れてしまったことが夢でよみがえるのも、何か意味があるのだろう。
そんな不思議な夢を見たのも、ちょうど秋を迎えた今頃が「読書の秋」だからかもしれない。
毎年行われている「読書週間」も、10月27日から11月9日までの開催だが、今年2020年の標語は、「ラストページまで駆け抜けて」である。
標語からうかがえるのは、これは紙の本を想定したもので、電子書籍のイメージはない気がする。
紙の本のページを焦るようにめくっていく姿が浮かんでくるからだ。
なぜ「読書の秋」が設けられたかは、以前にも書いたので省略するが、要するに、敗戦後の精神復興に本を読むことによる文化政策が背景にある。
そして、読書と秋の結びつきには、気候がいいということともに、中国の唐の時代の詩人、韓愈(かんゆ)の詩にある「秋になって雨も上がり、涼しくなって、灯火の下で書物を読むにはもってこいの季節」というような内容から、俳句の季語の「灯下親しむべし」や「読書の秋」という標語が生まれたのである。
現代では、昔のような気候に関係なく、クーラーや暖房器具などによって室内は快適な環境にあるので、特に秋に読書をするということにこだわる必要がないが、それでも、実りの秋の風景の中で、故人の書いた言葉や事績に思いを馳せることは、大切なことだと思う。
(フリーライター・福嶋由紀夫)