日本の近代化を成し遂げた明治維新、そして封建社会から近代国民国家への発展を奇跡的に遂げたのは、やはりその準備をした江戸時代というものを考えなければならない。
突然、武家社会が崩壊し、挙国一致の富国強兵を旨とした帝国主義的な国家が生まれたのは、その前提に庶民一般に浸透していた識字率の高さ、知識教養の沃土が全国的に広がっていたからだろう。
その下準備をしたのが、全国各地に存在した江戸時代の教育機関だった寺子屋教育を主導した私塾だった。
もちろん、各藩には武道を奨励するとともに、学問を教える藩校というものが存在したが、それは各藩の思想や身分によって入門者が限定されていたので、なかなか他藩の者が入塾して学ぶということができなかった。
そのような枠組みを取り払い、誰でも志があれば、全国のどこからでも入ることができたのが、各地に存在した民間の私塾だった。
それが成立したのも、当時の日本人には知識欲・学問欲が高かったためでもある。
それは歴史的に万葉集に示されているように、庶民から貴族まで、身分差に関係ない和歌や学問による平等主義が背景にあったからだろう。
国の知的、文化レベルを示す詩歌が、庶民から貴族・天皇まで身分差に関係なく万葉集に収録されたという事実はそこに国家の精神的風土、アイデンティティが存在したからと見ることができる。
その原動力になったのは、日本が島国という孤立した環境にあったため、どうしても先進技術や知識を大陸の先進国家から輸入し、その人材、技術、学問、書籍を尊び、それを手本として文化が発展して来たという経緯がある。
古代における朝鮮半島からの文物の移植、技術者、学者などの渡来人の到来は、身分差を超えて日本列島でひとつの民族的なアイデンティティ形成の上で、和合し、ひとつの日本人という存在の原型となった。
その一つの例が、日本列島の先住民族の縄文人と渡来系の弥生人の共生共栄の姿ではないかと思う。
在来の縄文人と弥生人が共生することで、日本人は新しいものを尊び、それを受け入れ、共に繁栄していくというDNAを育んでいったといえるだろう。
封建社会というと、士農工商という身分差が厳しくあった時代のイメージがあるが、実際は学問の下で平等社会であり、商家も武家も、血統を中心とした相続よりも、他家から優秀なDNAを持った人材を養子として迎え入れた。
江戸時代の大名家をみると、基本的には長男の相続が建前であったが、実際には、子供の病死や若死になどの要素もあって、身近な親族や他家から養子を入れて相続させていたという事例が多いのは、そうした縄文人と弥生人の共生共栄という思想が根底にあったからだろうと思う。
そのような背景のもとで、江戸時代私塾が流行した。
塾で学問などを学ぶことによって、社会が流動的となり、商家から武士に転じたり(坂本龍馬の家も実家はもともと商家だった)、その逆に武士が商人になったり百姓になったりしたケースが少なくなかった。
平和な時代には、さまざまな局面で活躍できる学問が重要視されたゆえに、有為な人材を育てるために私塾を開いた人物が江戸時代は輩出した。
九州の江戸幕府支配の直轄地で、天領と呼ばれた日田(現在の大分県日田市)は、四方を山に囲まれた交通の要地であり、河川の水系が豊かな地域だった。
この日田には、幕末期に多くの門弟が集まった私塾・咸宜園(かんぎえん)があり、全国各地から有為な人材が集まって来た。
最盛期には、門弟が三千人を超えたと言われているが、この咸宜園の創始者が、商家出身で病身のために引退し、学問の塾を開いた広瀬淡窓(1782〜1856)である。
淡窓は、儒学者、経世家、尊王家、漢詩人としても知られていたが、やはり一番本質的な能力は、教育家としてだろう。
咸宜園のユニークなのは、平等主義で身分差を認めなかったことだけではなく、年齢や入塾前の学問の状態なども無視され、ただ入塾した以後の学問のレベルというものが問われた。
それを判定するのが、月に一度行われる成績表「月旦表」という成績表であり、全員の成績を判定して席次を決めた。
また、討論会を行い、その成績によっても席次が左右された。要するに、学問に本当の実力のある者だけが認められたのである。
このような淡窓の教育方針は、江戸時代の空気が既に、身分差による絶対的な封建的階級社会ではなく、むしろ自由な空気、近代市民社会のような精神が学校の役割を果たしている私塾にはあったということだろう。
広瀬淡窓の思想は、士農工商的な封建的な思想ではなく、市民社会的な思考、そして、すべては「天」という絶対的な存在が人間社会を支配しているというものだった。
いわば「敬天思想」であり、その中にあって個人の人格と精神を磨き成長させることが学問であるとしたのである。
「我学問ヲスルハ古人ノ奉公ノ為ニ非(あら)ズ。唯己(おのれ)ガ身ノ為ニスルナリ。故ニ聖人ノ言(げん)ト雖モ己ガ身ニ於(おい)テ切(セツ)ナラザルコトハ之ヲ除キ、諸子百家ノ言タリトモ己ニ益アル事ハ之ヲ取ル」(『大分の歴史7』大分合同新聞社)
机上の学問ではなく、実際の役に立つ学問、実学的な発想をもっていたことがわかる。この思考が明治維新以後の近代精神の萌芽であることは間違いないだろう。
広瀬資料館発行の『広瀬淡窓手ほどき』(広瀬正雄著)によれば、淡窓の「敬天思想」は、儒教の本義は敬天を実践することであり、それが学問の探求ともなり、尊皇精神や愛国心であり、青少年の教育の中心と考えていたとある。
「相対的の天地が崩れる時がっても、その主宰者たる宇宙の大生命は永久に存続する。この大生命を朱子は理と名づけたが、このものは目に見えるものではなく、理というような言葉を以て現わすには余りにも幽玄的、絶対的なものである。淡窓は理とは言わずして天神帝の三字を以て形容し、もしくは上帝として之を尊崇した」(『広瀬淡窓手ほどき』)
淡窓が「敬天思想」の実践として行っていたのが、自分の一日の行いを振り返って、それが善だったのか、悪だったのかを判定して記録した「万善簿」である。
「万善簿」は、淡窓が天地の恩に報いるために記したもので、その日善を行えば白丸をつけ、悪を行えば黒丸をつけて毎日記録していた。
「万善簿」としたのは、淡窓が善を一万回行うことを所願したからで、毎日丸印が増えることをもって、自己の成長としたのである。
それが達成できたのは十二年後のことだった。
日本人は多神教的風土と言われているが、淡窓のように「天」という一神教的な精神が背景にあっために、西洋のキリスト教的思想、技術、近代文化をそれほど抵抗なく受容できたのではないか、と思っている。
(フリーライター・福嶋由紀夫)