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遠藤周作についての一視点

 遠藤周作については、一度、生前に講演を聞いたことがある。

 ぐうたら先生、狐狸庵先生などのペンネームで、ユーモア小説やエッセーを書いていて、もちろん、カトリックの作家として『沈黙』などの作品を出していたこともあるが、どこか気安い感じのイメージだった。

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 人気絶頂のことだったせいか、お茶の水にある大学の講堂には、多くの聴衆がつめかけ、満員状態だった。

 そこで、遠藤周作がどのような話をしたのかは残念ながら覚えていない。

 現役の人気作家の講演を聞くということで満足していたせいもあるだろうし、内容は既にエッセーなどで書いてあるものだったような気がする。

 それで印象に残らなかったのかもしれない。

 私は、本を読んでいたので、とにかく生身の作家に会うということに興奮していたことを覚えている。

 それは歌手やタレントのファン心理と同じだった。

 おそらく講演につめかけた聴衆のほとんどがそうではなかったかと思う。

 話の内容については覚えていないが、ただその後に起こった出来事が強く印象に残るものだった。

 講演の後に、質疑応答の時間が設けられたが、その時、1人の遠藤文学ファンらしい女子学生が質問に立った。

 その女子学生は、興奮した口調で、「遠藤さんはぐうたらとか狐狸庵と言われていますが……」といった質問のようなファンが告白するような質問をしたが、マイクを受け取った遠藤周作はその質問にそっけない返事をした。

 「君と私はここで初めて会った。気軽な友人のような呼び方は失礼じゃないか!」といったことを冷たい口調で切り出した。

 その後は、説教のような話になったが、あたりの聴衆がシーンと静まり返ったことを記憶している。

 多くの人々が錯覚しやすいが、確かに自分を道化のように本に書いたとしても、本人がそのまま同じであるとは限らない。

 分かりやすく言えば、落語家や漫才師が客の前で笑わせるための芸を披露したとしても、プライベートまで芸と同じであるとは言えない。

 むしろ家では笑わない不機嫌な人物であるという例がよくある。

 おそらく、遠藤周作も、エッセーに書いたユーモア的な人物ではなく、私的生活においてはむしろ不機嫌な鬱屈を抱えていた人物だったのだろう。

 そうでなければ、『沈黙』のような宗教小説や歴史小説、神の存在を問うようなテーマで書き続けることはできなかっただろう。

 ユーモア小説やエッセーは、その振り幅の大きい精神的なバランスを取るためのもので、ストレス解消のようなものだったと言えよう。

 ところで、その遠藤周作の代表作『沈黙』についての文学的な解釈では、一頭地抜けているのが、文芸評論家の江藤淳の『成熟と喪失』だった。

 江藤は、この本の中で、安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介、遠藤周作、庄野潤三などの第三の新人と呼ばれる作家たちを論じ、その内的なテーマを「母」の崩壊という視点から分析している。

 要するに、確固として存在していた父親を中心とする「家」が第二次世界大戦の敗戦とともに崩壊し、それが顕著になったのは、「家」を支えていた「母」のイメージが崩壊していったということである。

 父親の権威が失墜し、それとともに母親の像も崩れ、「家」の崩壊とともに、子どももその位置を失って漂流していくようになった。

 伝統的な価値観や伝統文化が否定され、父親が不在となり、そして、母親は親という立場よりも女という「性」があらわになっていく。

 そうした戦後日本の精神風景を「母」の崩壊という視点で描いている。

 タイトルの成熟と喪失は、父や母を失うことによる庇護や成熟ができなくなったという意味がある。

 母は戦前のような「家」を支える存在ではなく、父親不在の中で、子供ととともに生きていかなければならなくなった。

 そして、母の崩壊による成熟は悪を引き受ける(生きていくための悪)ことといったことを暗示しているといっていい。

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<a href=”//commons.wikimedia.org/wiki/User:Edal” title=”User:Edal”>Edal Anton Lefterov</a> – <span class=”int-own-work” lang=”ja”>投稿者自身による作品</span>, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 遠藤周作の『沈黙』においては、その父をキリスト教の神と置き換え、そして、母を許す慈愛の存在としてのイエス・キリストを迫害の中でも沈黙し続ける父なる神に代わって、イエスが母親として許しを与えるという構図になっている。

 要するに、キリスト教迫害の江戸時代に宣教にやってきた外国人の宣教師が踏み絵を強いられた時、母なる声が「踏むがいい」と許しの言葉を投げかけるのだった。

 江藤淳は、この場面を次のように記している。

 「踏まれたのはまず『父』なる神であり、教会そのものを支える世界像である。(略)その声にはげまされてついに踏絵に足をかけた彼は、同時にその行為によって『父』を抹殺し、『母』との合体をとげた」(江藤淳著『成熟と喪失』講談社文芸文庫)


 これはまさに、戦前の家族制度の崩壊、父性の失墜と不在、母親の自立と子供だけの家族関係といったものを象徴している。

 このような分析と文明批評的な視点で描かれた『沈黙』ついての解釈が、戦後日本の精神風景だけではなく、日本においてなぜキリスト教が根付かなかったのかという問題とも重ね合わせて捉えられるのである。

 少なくとも、私自身はそのような解釈もあり得る、という印象を受けたのだった。

 その意味では、この江藤淳による文芸批評によって、初めて私は『沈黙』の本質が見えて来たといっていい。

 それまでは、どちらかというと、私はロシア文学におけるドストエフスキーの小説『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などに表れる神の問題の肯定と否定の渦巻くようなドラマこそが本当の宗教小説と感じていた。



 そのために、日本文学における宗教小説、特にキリスト教文学について、どこか遠藤周作の作品を軽んじていた面があった。

 それが江藤淳の解釈を通じて、新たな地平を見るような気がしたのである。

 もちろん、江藤淳の見方は私が受け止めた範囲での解釈なので、その通りであるかはどうかは分からない。

 江藤淳は、遠藤周作の『沈黙』を宗教小説とは見ていないような気がするし、その点では、もう一度、遠藤周作の文学について自分なりの見方で考えなければならないのかもしれない。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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