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遠藤周作の『深い河』とインドでのこと

 ふっと最近頭をよぎるのは、自分の人生の終着点は、どこになるのだろうか、ということである。

 年齢とともに、肉体の衰えとともに、感じるのは、やがて人生の旅の終わりがやってくるということである。

 これまでは、そうしたことを考えても、どこか他人事のような、やがて来るであろうことは間違いないが、まだそれは身近なものではないといった漠然とした思いがあった。

 誰も、未来を予測できないから、今の時間を楽しみ、そして、知らず知らずにその日を終えてしまう。

 食べて寝て、そして翌日が来ることを根拠もなく信じている。

 それはまだ自分自身の肉体が意識しないでも、そのまま自然に動き続けていると思っているからである。

 だが、肉体が衰えて来ると、それが自然ではないことがいやでも理解されて来る。

 病気やケガなどによって、それを強制的に思い知らされる。

 もちろん、肉体は成長していくにしがたい、運動によって維持する以外は、劣化していくのは当たり前なのだが、それを意識しながら生きていくことはできない。

 昨日があり、今日があれば、明日もあるだろうと思っているのがわれわれである。

 これは何も我々だけではなく、誰の人生にも起こることで、誰しも完成したり完結したりした上で、満足して終わりが訪れるわけではなく、突然、道の半ばで未完成のまま切断されたような終着駅を迎えるである。

 たとえば、芸術家でも、最後の境地になって、もう自分にはこれ以上のものは出来ないと思って終わりを迎えることはない。

 画狂人と言われた葛飾北斎にしても、最後はようやく絵というものが分かって来た、あと何年か生きられればもと素晴らしい満足した作品が描けると思いながら息を引き取ったことは有名である。

 作曲家でも、最後まで楽譜を完成させないままに亡くなってしまうケースはままある。

 しかも、それが未完成なまま発表され、演奏されたりもする。

 確かに、作品としては完成していないのだが、その先に、作曲家が見たであろう未来が幻のように聞こえて来る気がする。

 そうなると、完成とは何だろうという疑問に捕らわれたりもする。

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 キリスト教の作家である遠藤周作の『深い河』は、最晩年の作品で、厳密に言えば未完成のものだが、そこには、遠藤文学の最後の到達点である境地が描かれている。

 遠藤は、代表作の『沈黙』では、それまでのキリスト教の概念に、日本的というか、東洋的な母性的なキリスト教を描いて見せた。

 イエスの愛はどこまで人を許せるのか。

 神はいつまで沈黙しているのか。

 そうしたテーマを背教という絶対的な場で、描いた遠藤文学は、しかし、小説的な感動と宗教的なテーマの中で揺れ動き、最終的には同伴者イエスとしてすべてを許す母性を打ち出している。

 最初は、異端として排斥された時もあったが、徐々に新しい神学を提示したということで、西洋でも評価されるようになった面がある。

 だが、遠藤周作は、その後も独自の世界を描き続けたが、途中、そうした宗教的なテーマそのものを問い続けるよりも、大友宗麟や小西行長、支倉常長などを取り上げ、歴史の中で運命に翻弄される人間像を描いている。

 そこには、キリスト教への信仰という背景はあっても、『沈黙』のような信仰の本質への問いかけやドラマチックな展開はない。

 むしろ、大友宗麟にしても、キリシタン大名という枠組みはあっても、むしろそれを打ち壊すような人間的な苦悩を描いている。

 むしろ若き時代の宗麟は、悪人といっていいような生きざまをしている。

 また、小西行長にしても、神への信仰と世俗的な権力への忠誠といった矛盾したものの板挟みを「面従腹背」といった姿で描いている。

 小西行長のそうした生き方は、どこからか遠藤周作の生き方や信仰と重なっているといっていいかもしれない。

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 ただ、支倉常長がモデルとなった『侍』は、主人公が沈黙していて、その心理が見えないようになっている。

 支倉常長の歩んだ道をたどりながら、その中心には沈黙が支配しているといっていいかもしれない。

 この作品が、一番全体的に破綻がない、端正な完成度をもっているが、それは主人公が大友宗麟のようにあがいたりもせず、小西行長のように信仰と世俗的権力の中で、常に揺れ動いているといったものがないからである。

 内心は分からないが、一番信仰者らしい生き方をしているといっていいだろう。

 だが、それは神を信ずるか否かというテーマを主人公が抱いていないからで、これはある意味では語れざる東洋的な「イエス」的な像でもあるだろう。

 その意味では、遠藤周作の理想像ではなく、かくあるべき理想的な像であっても、それ以上の進展はない完成された極北の姿でしかない。

 そのために、もう一度、遠藤周作が問いかけをした第二の「沈黙」がインドを舞台にした『深い河』ないかとい気がする。

 西洋的なキリスト教と東洋的なキリスト教の出会い、といってしまっては要約が過ぎるだろうが、遠藤周作が信仰というものの到達点を求めていたことは間違いないだろう。

 ということは、この作品を通して、何らかの結論、境地を示したかったのであろうか。

 もしそうだとしても、この作品が未完成であるために、そうした結論を下すことは不可能である。

 そこに投げ出されたのは、インドのガンジス河で死んでいく一人の神学者、西洋的な信仰と東洋的な信仰の間で、苦悩しながら、それでもただ前を向いて歩き、実践し、そこから何かをつかもうとした人間の姿そのものである。

 だからこそ、完成しなかった作品ながら、そこに人生の途中で、断絶した生命の不思議な輝きがある。

 完成されたものは、その先が見えない。

 けれど、未完成なものには、その先にあるであろう未来の完成が見えて来る。

 人生は、死という完結をしたときに、その人の本質が見えて来る。

 なぜなら、神を信じる者は、肉体の死の向こうに、魂として生きる道、本当に完成する魂の道があると信じているからである。

 そんなことを、最近、ふと考えたりする。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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