黄七福自叙伝38
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第3章 民団という組織のこと
その時々の民団のこと
一九六一年四月の定期地方議事会で、車忠興執行部が選出された。
私は金晋根議長のもとで、副議長を務めた。もう一人の副議長は梁恵承だった。監察委員長は宋甲憲だった。
当時、五日会という在日韓国人社会の有力者の集まりがあって、徐甲虎、韓禄春、安在枯、朴漢植、李熙健がそのメンバーで、毎月百万円余りを民団本部に賛助していた。
一九六一年七月の頃、東大阪地区に民族学校を設置しようという模範学校設置運動が起き、「東大阪地区模範学校建設委員会」が結成された。
委員長は民団生野支部の曺原鎬支団長で、当時、東住吉支部の支団長であった私も、東成支部の金国雄支団長とともに副委員長ということになった。
しかし、残念ながら、掛け声だけに終わってしまったが、その背景には、布施朝鮮人初級学校、生野朝鮮人初級学校を抱える朝総連側の猛烈な反対もあった。
たとえば「韓国学校に子弟を入学させると、将来は韓国軍隊に強制徴収させられる」といった流言蜚語を流し、同胞を惑わしたりしたのである。
このころ、反共殉国団が結成されて、民団に対する圧力団体として機能した。
反共殉国団は強引に本部団長室を占拠し、そのため車忠興執行部は隣接の応接室に籠城して対峙するというかつてない醜態で、その後の十日間は隣同士で怒号と騒乱の毎日という有様だった。
このことを、車忠興執行部は、一九六一年十一月二十二日に開かれた民団大阪本部臨時大会での経緯として中央本部に次のように報告した。
「一九六一年七月初め頃、大阪に設立された在日大韓反共殉国団と、民団大阪府本部の車忠興執行部との間に対立が生じたが、同年十一月十八日の民団大阪府本部大会で、両者の対立が表面化して大きな混乱が生じた。
この混乱に耐えられなくなった車執行部は辞任を表明してようやく議事会を収拾し、二十二日に改めて臨時大会を招集したのであるが、そこでは両者の対立はより一層深刻になって、大会の運営が不可能になったので閉会を宣言した。ところが反共殉国団が不法にも大会の議事をそのまま進めて、崔仁俊団長など三機関長を選び、その上、団長室を占拠した。かくして反共殉国団の崔の方は団長室を占拠し、車執行部は応接間に籠城し対峙を続けている」 この報告を受けて、中央本部は収拾に乗り出した。団長は権逸であった。
大阪本部を直轄にし、張聡明中央本部副団長を大阪本部の臨時代理団長に任命し、二十九日に臨時大会を開くことにした。
臨時大会では、経済界が推薦した信用組合大阪商銀副理事長の姜宅佑と反共殉国団が推した朴玄の二人が立候補したが、大差で姜宅佑が当選した。
事態は収拾されたが、翌年、姜宅佑団長が辞任したことから、団長を選びなおすことになった。四月七日の定期大会で、徐相夏と梁恵承が立候補し、徐相夏が当選した。
その徐相夏執行部は、中央本部が進めていた民団の規約改正に反対して、中央本部権逸執行部と激しく対立するようになり、混乱はますますエスカレートした。
結局、中央本部の強権発動によって、徐相夏団長は一九六三年三月十九日付で一年の停権処分となり、民団大阪本部の定期大会が開かれて、再び、姜宅佑が団長に選ばれた。
いずれにしても、内部が紛糾するということは、指導力が欠如しているということにほかならなかった。
民団に求心力ができて、大衆が納得する行動を起こすことができれば、祖国統一のための行動を起こすことができれば、そのような内部紛争は生じないと感じた。
民団大阪本部の役員のこと
一九六七年四月、三期目の姜桂重執行部が誕生した。
私は趙宗大とともに副団長に就任し、経済部長も兼ねた。議長は金達寛、監察委員長は方鎬煥であった。姜桂重には、吉泰、佶満という弟がいて、彼らとも兄弟のようにつきあった。
一九六八年一月、北朝鮮ゲリラによる青瓦台襲撃事件が発生した。幸い未遂であったが、逮捕されたゲリラの名をとって、金新朝事件とも呼ばれている。
その事件は、朴正熙大統領と閣僚の暗殺を狙って、北朝鮮第一二四部隊第一中隊第一小隊に所属する三十一名が、韓国軍第二六師団の模擬制服で変装して休戦ラインを突破し、韓国領に侵入したのである。
ソウル市内に入ると、持参した日本製の背広とレインコートに着替え、青瓦台八百メートル手前の北漢山まで侵入したが、ゲリラの目撃情報によって警戒中だった韓国当局に検問を受け、 その場で自動小銃を乱射して逃亡した。
韓国軍と警察部隊の二週間におよぶ掃討作戦を展開、一名を逮捕、二十九名を射殺、一名が自爆した。一方、韓国側は六十八名が死亡した。
逮捕されたのは当時二十七歳の金新朝少尉で、彼の供述により北朝鮮における特殊部隊の存在が明らかになった。
また、朴大統領が殺害されれば、韓国民衆は必ず労働者革命を起こすと分析していたという。
金新朝が供述した侵入方法は、三八度線に張ってある金網の継ぎ目の部分である柱の付近を切り裂いて侵入したもので、その切り裂いた侵入口を元のように修復してわからないようにしてあったという。
一九六九年四月、金晋根執行部が誕生した。
私は副団長に就任した。もう一人の副団長は崔喆洙だった。議長は梁恵承、監察委員長は張起説だった。
一九六九年十一月、民団大阪本部の第三十八回臨時大会が召集され、崔鳳学執行部が誕生した。私と金東出が副団長に就任し、議長は卞先春、監察委員長は張起説だった。
永住権申請運動が最優先課題として推進されていた時期で、崔鳳学団長を委員長とする「大阪韓国人法的地位常任委員会」が構成された。
私も常任委員の一人として名を連ね、「啓蒙班」に所属した。ほかに「代筆班」があった。 大阪は在日同胞の最多住地域であり、全国からその動向が注目されていた。セスナ機をチャーターして空から永住権申請を呼びかけるなどした。在阪同胞二十余万人のうち十四万人が永住権を申請した。
万博後援事業も最重要事業だった。在日同胞の有力者を網羅した「在日韓国人万博後援会」が組織され、会長に李熙健大阪興銀理事長が就任した。私も常任委員の一人として名を連ねた。
一九七〇年十一月、東大阪韓国教育文化センターで、大阪韓国人教育委員会準備委員会が構成された。私もメンバーの一人として名を連ねた。
一九七一年五月、朴玄執行部が誕生し、一九七二年四月には姜桂重執行部が誕生した。
諸先輩が創設し、残してくれた民団であったが、創団して二十年が過ぎ、時代もそれなりに変遷していた。であれば、それに相応した政策に切り替えなければならないと思われた。
私からみると、旧態依然とした運営の域を出ず、団員に密着した組織とはいえなかった。そのため、民団組織をより団員に身近な組織にしていく必要があると感じた。
いうならば、民団改革を進めて、時代にマッチさせ、在日同胞社会により必要とされる組織にしなければならないと感じたのである。