黄七福自叙伝67
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第5章 在日同胞の将来を考えつつ
光州事件のこと
光州事件のとき、大統領は崔圭和だった。全斗煥が中央情報部長で、保安司令部司令官を兼任していた。情報部の秘書室長が許文道、次長が金某で、学者タイプの陸軍大将だった。
そのとき、全斗煥司令官が、日本から李熙健、韓禄春、私、関東の朴成準の四人を招待してくれた。私たちは五億円を献金した。生まれてはじめて、情報部から楽議案を出してもらい、光州へ視察にいった。
私は、光州に生まれてはじめて足を踏み入れた。そこは将校訓練所で、芝生がずうっと広がり、光州地域の将校や知事らも招待されていて、午餐会が開かれた。
ある人から「金大中先生は、なんで日本ではアカ(共産主義者)だというのか」という質問が出た。
私に質問があったので、江原道人の私が言うより全羅道人の朴成準が言うほうが効果的だと思い、「私より朴成準のほうがよく知っている」と振った。
朴成準は、こうこうで、アカに見えたし、「民団には一歩も踏み入れもしなかった」と答えた。
終わった後、朴成準は私に向かって「死ねということか」と目をむいていた。
全斗煥大統領のこと
全斗煥政権下になって、光州事件とかいろいろあったが、統制がとれたし、治安もよく、夜中でも娘が裏通りを一人で歩いても安全だった。
貿易も順調だった。自由と権利は悪いことではないが、社会が整理整頓されて、統制がとれてはじめて国家らしい国家になる。治安が乱れると、そこに住んでいる国民が悲惨だ。
一九八〇年に民主正義党が結成された。略称は「民正党」である。
「社会正義を具現する」という全斗煥の考えを反映した党名で、実際に、多数のやくざ者やホームレス、非行少年が強制収容所に送られた。
民正党の結成大会にも私も招待された。
民正党の結成実務を担当したのが李鍾賛で、中央情報部次長だったが、全斗煥に抜擢されて政界入りした。