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黄七福自叙伝「四つの大逆事件」

 

黄七福自叙伝17

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第1章 祖国解放までのこと

四つの大逆事件

朴烈の大逆事件のほかに、一九一〇年の「幸徳事件」、一九三年の「虎の門事件」、一九三二年の「桜田門事件(李泰昌事件とも呼ばれる)」が知られ、これら四つを四大大逆事件といわれている。

「朴烈事件」は紹介したように、関東大地震の混乱期に「保護検束」の名目で検挙された朴烈と妻の金子文子が、翌年、爆発物取締罰則違反で起訴され、一九二五年に大逆罪にあたるとされたもので、死刑の判決だったが、恩赦で無期懲役に減刑された。

ちなみに、ほかの三つの事件も簡単に述べてみる。

「幸徳事件」というのは、明治天皇を爆裂弾で暗殺しようとした計画が発覚したものだが、多くの社会主義者やアナキスト(無政府主義者)が死刑にされた。

が、実際に計画したのは、幸徳秋水ら五名にすぎなかったことが、後の調査でわかった。

「虎ノ門事件」は、一九二三年、難波大助が虎の門で、帝国議会の開院式に向かう摂政・皇太子裕仁親王のお召車にステッキ状の銃を発砲・狙撃し、現行犯で逮捕されたもので、翌年死刑が執行された。 この事件により、山本権兵衛内閣は総辞職、衆議院議員だった大助の父難波作之進は即日議員辞職した。

「李奉昌事件」は、朝鮮独立運動の活動家・李奉昌が一九三二年一月八日、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾二個を投げつけ、近衛兵一人を負傷させたもので、同年十月十日に市ヶ谷刑務所で死刑が執行された。

一九四六年に在日韓国人が遺骨を発掘、故国である韓国において国民葬が行われ、独立運動の「義士」として独立記念館に顕彰されている。李奉昌は一九〇〇年に生まれ、一九三一年に金九によって上海で結成された抗日レジスタンス組織「韓人愛国党」に参加した。

朴烈が爆弾入手を依頼した義烈団というのは、すでに紹介しているが、一九二三年(大正十二)二月七日、朝鮮総督府爆破陰謀の理由で義烈団の団員であった金始顕ら十四人が逮捕されている。

植民地政策が強化されるにつれて抗日運動運が激しくなり、ソウルでは新幹会や槿友会が組織されて抗日運動が広がりを見せ、元山では労働者のストが、間島では農民による反日武装蜂起が敢行された。

また、全羅南道光州では学生が日本学生の非行に抗議のデモを起こし、抗日学生運動が全土に波及した。

当時の朝鮮総督は山梨半造であったが、しばらくして斉藤実が任命された。その斉藤は再度の就任であった。日本では関東大震災が発生し、朝鮮人暴動の流言蜚語で多くの朝鮮人が無差別に虐殺された。

さらに、三重県木本町では道路工事に従事していた朝鮮人の土工が虐殺された。朴烈事件は、こうした世相のなかで仕立てられていったのである。

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