黄七福自叙伝13
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第1章 祖国解放までのこと
大河内少将のこと
戦争が激しくなり、平和産業を軍需産業に切り替えることになった。
友禅工場なども全部廃業ということになり、統廃合されて、軍需産業に切り替えられたが、友禅は日本の文化だからということで、例外措置として一部は残された。
私が勤めていた棚橋友禅工場も統廃合の対象とされたようで、社長が中島という名前で、私は、その社長に目をかけられていた。ある日、
「この子は頭もいいし、使い走りをさせたらどうか」
と、軍人らしい人に紹介された。
その人は、大河内宜兄という名前で、中島社長が、何かの因縁で懇意にしていた人だった。
仙台の人で、陸軍少将という偉い人だった。第二次上海事変における上海海軍特別陸戦隊司令官として名を知られていた。
第二次上海事変とは、一九三七年(昭和十二) 八月十三日に起こった日本軍と中華民国軍の戦闘で、そのまま日中戦争へと進んだ。
第一次上海事変は五年前の一九三二年一月二十八日に起きた。
ということで、陸軍省の使い走りをすることになった。
私は、陸軍省の何かの課の嘱託という身分だった。秘書のような形で、大河内少将に付き添って歩き、いろいろな雑務に走り回るという仕事だった。
友禅工場では百円の給料だったが、大河内少将の使い走りをした時は給料というものはなく、小遣いとして十円ぐらい貰う程度だった。
大河内少将と一緒に近鉄大阪線の弥刀か八尾か、はっきり覚えていないが、タケオ化学という会社を視察した。
金属は供出しなければならなかったから、竹で家庭用具を作るタケオ化学のような会社を軍が支援し、奨励するためだった。
私は関係していないが、近鉄(近畿日本鉄道)もそのころに統廃合された会社だ。
いうまでもなく、上官の命令には絶対服従だった。調査命令が下りた工場へ急行し、その工場の状況をつぶさに把握して、書類を作成し、報告した。
私は真面目に飛び回り、機転も人一倍利くほどに動き回った。そうしたことが、大河内少将に評価され、報告だけにとどまらず、自分の考えをつけ加えて、今後の見通しを述べた。
私は、日本人らしく振る舞い、大河内少将はもちろん、行く先々の日本人からの目をかけられた。
心の中では、祖国の独立を人一倍願っていたが、そのような真情は表に出すわけにはいかなかった。
日本レーヨンでのこと
大河内少将が何かの任務に就くということで、使い走りの仕事が終わり、日本レーヨンの求人募集に応募する形で、就職した。
が、大河内少将のつながりは切れていなかったし、働きながらも、京都の中京区にあった大河内少将の屋敷に出入りした。
日本レーヨ ンでは研究室付の勤務だった。研究者には京大の教授などが出入りしていて、その研究室の使い走りが仕事だった。
日本レーヨンは、人絹を製造する会社だった。工場には大きなタンクがあって、そのタンクから圧力で液体が押し出され、一方に蛇口みたいなものがあって、その中のプラチナのノズルから吹き出てきた糸状のものが、その下の希硫酸の液体の中に入って固まり、糸になった。
そんなある日、職場の上役から、
「君の国、独立したいか」
「したいです」
「いや、君の国は地下資源がないから、独立しても無理だろう」
と言われたときは、私のプライドが大いに傷つけられた。
前にも書いたが、そのころに早稲田大学の学生らがきて、金日成将軍が独立運動をしている満州へ行こうと誘われたこともあったが、その誘いに乗ることはできなかった。
日本レーヨンには朝鮮から連行された従業員も相当数いて、「金日成将軍は……」などのヒソヒソ話がかなりあり、金日成の活躍を聞いて、祖国独立への夢を膨らませた。
日本レーヨンには二、三年いたように思う。その日本レーヨンは一九二六年に設立された会社だが、戦後の一九六九年に大日本紡績(ニチボー)と合併してユニチカという名称になった。