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黄七福自叙伝「日韓国交正常化のこと」/「日本の財界のこと」

 

黄七福自叙伝37

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第3章 民団という組織のこと

日韓国交正常化のこと

鎌田詮一が韓国を訪問したのは、翌年(一九六二年)の一月だった。私は通訳として同行することになった。

鎌田詮一の家が東京・四谷にあって、しばしば出入りし、打ち合わせをした。また、鎌田詮一と一緒に日華協力会へ行ったりして、いろいろと研究した。

鎌田詮一は、佐藤栄作とも親交があった。佐藤栄作はそのとき通産大臣で、餞別をもらっての韓国行きだった。

そのとき、佐藤栄作が、

「松本さん、韓国へ行ったら朴議長に、韓国は早く正常化せなあかんと伝えてくれ。カネがいるんだったら、なんぼでも出すと。新潟の実験場から発射したロケットが日本の領海を越えてソ連領海に落ちたから、抗議がきて困っている。もう少ししたら新潟を閉鎖して鹿児島に移すようにするから、それも言ってくれ」と。

韓国には一週間ほど滞在し、半島ホテルに宿泊した。そのときの祖国の状況は廃墟同然の瓦礫の街といってもよかった。

すべての面で復興しなければならない状況だった。日本にとっては、大きな金儲けのチャンスだと思われた。

鎌田詮一は一週間ぶっつづけて新聞に載った。経済協力やいろいろなテーマでインタビューに答えていた。

通訳として鎌田詮一のそばで話を聞いているとき、「ヤンへの工場が必要だ」とかなんと話していた。「ヤンへ」って聞いたことのない言葉だったが、漢字で書くと「洋灰」だった。

それをそのまま「ヤンへ」と発音し、セメントであることがしばらくしてわかった。その頃、祖国を復興するには確かにセメントが必要で、セメント工場を誘致する必要があった。

鎌田詮一は、表向きは日韓経済協会の仕事、裏方は日韓国交正常化の仕事で、韓国へ行き、国家再建最高会議の朴正熙議長と会った。私も通訳として同行した。

やはり軍人らしい厳しさがあって、鎌田詮一も軍人だったから、朴正熙大統領を高く評価していた。日本は絶対的天皇制の国家であり、鎌田詮一はその統治に慣らされているような感じだったから、民主 化というものをあまり評価していないようだった。

鎌田詮一に同行しながら、日本に住んでいる以上、国交正常化を歓迎したし、「日本は、早く国交正常化を望んでいる」と伝えつつ、自分なりに国民としての役割を果たしたいと、そういう気持だった。

私は根っからの反共主義者だったから、朴正熙議長の姿勢に同調するところが多かった。

国交正常化交渉の舞台裏を身近に見て感じたことは、日本は強気一本やりということだった。

鉄道も引いてやったし、あれもしてやった、これもしてやったという姿勢で、それに対して、韓国側は返す言葉を失することが多かった。

韓国は、李承晩ラインを侵犯すれば即座に逮捕していたし、日本はその李ラインに悩み、アメリカも苦慮し、一時、「朝鮮半島にはなんのメリットもないから、李ラインをアメリカラインにして、日本だけを守っていこう」という話があった。

その李ラインの撤廃も焦眉の課題だった。

国交正常化の条件として無償三億ドル、有償二億ドルの日本の経済援助が実施された。

それに対し、植民地時代の損害はそんなちっぽけな額ではない、屈辱外交だと反対する声も大きかった。

しかし、韓国は植民地から解放されても、収奪された結果としてスッカラカンという荒廃の状況だった。背に腹は変えられないということから、その条件を呑んで、国交正常化に踏み切った。

その当時は一応大きな金額だったが、今になればほんのはした金だった。

朴正熙大統領は、そのカネを有効適切に使ったから、その後、目を見張るほどの経済復興を成し遂げることができた。

その意味からも、朴正熙大統領は偉大な人であったと思わざるを得ない。

 

日本の財界のこと

軍事政権の初期に、通訳として、鎌田詮一に同行し、韓国に渡って、多少なりとも日韓の橋渡しができた。

馬山輸出自由団地のことも鎌田詮一から聞いて、進出し、共和螺子を設立した。進出して十年余りが過ぎると、鎌田詮一との関係も疎遠になってしまった。

日本の経済人は、「韓国人は手先が器用だから、裁縫の仕事をやらせたらどうか」などという具合に、植民地政策の思考から抜けきれないでいた。

だから、製鉄などの基幹産業のことには触れようとしなかった。

浦項製鉄建設のときも、「やがて、日本が苦渋をなめる」と反対だったが、朴正熙大統領の強い意志で、渋々承知したようなものだった。

日本の一部の学者は、「植民地政策は最後まで軍政で、総督府の総督はみな陸軍大将だったが、そうではなく、日本と韓国は近い関係にあり、地下資源もない国だから、日韓連邦制で同等な権利をもち、韓国人も総理になる、そういう政策を考えていけば、日韓両国の利益だった」などと、もっともらしく発言していたが、とんでもない暴論といわねばならない。

そうした発言は、どこまでも経済的視点のみを優先するもので、言葉をどうするか、文化をどうするか、などの視点がまったくない。要するに、民族全体を抹消するということにほかならないからだ。

日本の閣僚のなかには韓国のことを全く知らないと思われるような人もいたので、そのことは韓国政府とっては大きな懸念材料だった。

そこで、新日鉄の副社長であった藤井丙午の平河町の事務所にいったりして、いろいろと話を聞き、また政財界の話を録音して送ったこともあった。

そうした関係で、経済同友会の設立に尽力し、財界政治部長といわれていた藤井内午が参議院議員選挙の全国区に立候補したとき、大阪で協力したこともある。私が韓国に会社を設立したときも大変世話になった。

自民党衆議院議員で、運輸大臣を経験している藤井孝男は、藤井丙午の三男だが、機会があれば、一度会ってみたいと思っている。

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