黄七福自叙伝33
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第3章 民団という組織のこと
日韓国民同盟を結成したこと
六・二五動乱特需で工場がフル稼働している頃、日本の政界は自由党と民主党があり、自由党は吉田茂、民主党は鳩山一郎、芦田均が総裁だった。
国会の外には院外団というものが組織されていて国会で何か混乱が起きた場合、その院外団が中に入って暴れまわるという寸法だった。
何かの辞書には「特定政党や議員と連携し、支持・協力する議会外の集団」と定義しているが、あからさまにいえば、暴力団と同じような体質だった。
だから、院外団には腕っ節の強いものが選抜されていた。畠山義雄とつながっていた人で、吉野とかいう生野かどこかの人で、自由党の院外団で活躍しているということだった。
背の高い人で、玉突台でもひっくりかえすほどの力もちだった。その人の話を聞いたことがあるが、反対派を手で殴ったら、写真にとられるから、全部足で蹴るんだと。
六・二五動乱が休戦になって四年後、私は、日韓国民同盟を設立した。
日本と韓国を併せても一億二、三千万の人口に過ぎず、周囲は中国が七億人、ソ連が二億人、金日成の北朝鮮が二千万人という共産主義に囲まれているアジア情勢を考えると、祖国の共産化を阻止せんという気持が高ぶり、微力ながら国民的次元から反共活動に挺身しようという熱情に駆られた。
一九五七年に、中央公会堂で「日韓国民同盟」という右翼団体を結成した。右翼団体というよりも反共団体だった。「祖国に血を、闘志に涙を、家庭に汗を」が三大スローガンだった。
韓国と日本の民主主義は共産主義の包囲網のなかにあるという危機感から、共産主義に侵略されないように反共精神を高揚し我々で守っていこうという主旨の宣言文も作成した。
韓国側代表に私が就任し、日本側代表は畠山義雄という、国粋大衆党(笹川良一総裁)の総務部長をやった人だった。
その結成大会に、大韓青年団の団長をしていた辺基柱と金中源議長が来賓として登壇し祝辞を述べた。
辺基柱は韓玉順から「この人は、つきあって、悪いことはないから」と紹介され、知己になっていた。
韓玉順は、婦人会設立の功労者で、一九四七年七月に「女子青年団」を新たに結成し、初代団長は韓玉順であった。
一九四八年九月に設立された婦人会大阪本部の初代総務部長を務め、一九五五年四月に会長に就任した。
日本の右翼の大物は頭山満で黒龍会と称されていた。その一番弟子が福岡かどっかにいて、その人が激励にきてきてくれた。
頭山満が、「国会議事堂、焼き討ちせえ」と鶴の一声を発すると、いくらでも焼き打ちする部下がいたというほどで、国家議員に当選すると、必ず頭山満に挨拶に行ったという。
碁が好きで、打っている最中にきたら、立たせたままで、終わるまで待たせたという。
当時の右翼は、純然たる政治勢力で、暴力団とはなんの関係もなかった。その当時の右翼の大立者は、吉田松蔵、畠山義雄、大阪では、新大阪新聞の社長をやっていた榎本鷹山などで、「闇取締り本部」とかと新聞に書いて大騒ぎになったこともあった。
アジアのなかで自由民主主義国家というのは韓国と日本だけで、人口を総計しても一億人余に過ぎなかった。
中国、ソ連などの共産主義国家に包囲された形にあり、これに勝ち、生き延びるためには、反共の立場で団結しなければならないと確信し、日本の右翼とも手をつなぐ必要を痛感した。
というのも、右翼が反共を旗印にしていたからだった。
共産主義が嫌いになったのは、「自由がない」ということはもちろん、肉親でも平気に殺しあうという現実を目にしたからだった。
祖国を侵略し、虐げてきた元凶は右翼勢力であるという過去の歴史は、自由民主主義国家という体制のなかで改めて問い直されるべき命題であって、それ以前の現実問題として、われわれはまず自由民主主義体制のもとで生きなければならない。
そういう考えに到達して、日韓の国民的次元による反共団体の結成に踏み切った。いうならば、反共の義兵闘争だった。
日韓国民同盟の活動として、分断された祖国を共産主義から守るということを主眼に、「反共の勉強会」を実践した。
演説会も何カ所かでやり、毎日新聞のインタビューを受けたりした。そうした演説会には、朝連の元委員長なども聞きにきていた。が、畠山義雄が急逝して、尻すぼみの状態になった。
大日本愛国党を結成し、親米反共の右翼活動を展開した赤尾敏とも交友があった。党員の山口二矢が、一九六〇年十月十二日、日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を襲って刺殺するとい うテロは衝撃を与えた。
社会党党首の浅沼稲次郎は、中国を訪問して、帰国するときには中国人民帽をかぶり、中国 共産党の言うとおりに「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」などと発言して、右翼 から大いに反感を買っていた。
私の思想も、「二・二六事件」や「五・一五事件」に影響を受け、真の指導者を渇望するあまり、テロリズムを称賛するほうだった。
人を殺したということは許されないことだが、山口少年のその勇気には目を見張った。その勇気は右翼の世界でも賞賛された。
一九四〇年前後のことだが、崔承喜という世界的な舞踊家がいた。
崔承喜は一九四〇年代初めにパリのシャンゼリゼ国立劇場で公演した際、ピカソやマティス、ジャン・コクトーらが劇場に足を運んだほど、世界的な名声を博した舞踊家だった。
「舞姫 崔承喜」という映画もあった。解放後、六・二五動乱(朝鮮戦争)という混乱の中で、北に拉致されたのかどうかは定かでないが、日本にも弟子が大勢いたらしく、日本に招待しようという話が持ち上がったことがある。
招待されて日本に来たら、私は日本の右翼グループと共同して、拉致し、韓国へ連れて行こうと考えたことがあった。
その後にわかったことだが、社会主義作家だった夫と共に越北し、「人民俳優」の称号を受けたが、一九六七年に粛清されたということだった。