黄七福自叙伝25
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第2章 祖国が解放されたこと
朝連という組織のこと
このようにして朝連は一夜にして、左派勢力に乗っ取られ、指導層は共産主義者らで固められられていたが、一般の同胞はそのような実態を知る由もなく、また、主義主張で固まったのでもなかった。ただ、同胞の大同団結組織として、解放の喜びを分かち合う場であったのだ。
同じ民族、すなわち、植民地時代に苦労した同胞が、日本の敗戦により解放されて、遠慮せずに会うことができるようになったことが嬉しいということで、朝連がまたたくまに全国組織になったし、それは怒涛の勢いだった。主義主張ではなく、同胞愛の発露だった。
それは、金天海の存在も大きな理由だった。
というのも、左右両派を問わず、金天海の人気は絶大で、朝連ではただ一人、最高顧問という一段階高い超然たる地位に迎えられていた。その金天海がいる朝連は、同胞のために尽くす組織であるに間違いないと、同胞すべてが信じきっていたといってもよかったからだ。
結成当初の朝連の綱領は、「新朝連建設に献身的努力を期す」「世界平和の恒久的維持を期す」「在日同胞の生活安定を期す」「帰国同胞の便宜と秩序を期す」「日本国民との互譲友誼を期す」「目的達成のために大同団結を期す」というもので、左翼的な色彩などは見られなかった。
翌四六年二月二十七日、永田町国民学校で開かれた朝連の第二回臨時全国大会では、左右両派が激しく対立した。
「朝鮮人民共和国(北朝鮮)支持問題」をめぐって、右派が「共産主義者を連盟から追い出せ!」というビラをばらまいたことから、左右両派の乱闘となった。左派の行動隊が優勢のなかで、右派は鄭哲の拳銃発射によって難を逃れた。
この乱闘騒ぎも、朝連組織内では、左派に有利な情報操作でかき消され、真相を知る者は少なかった。
一九四五年十二月一~三日に党本部で開かれた日本共産党第四回全国大会は、日本共産党の再建大会といわれ、中央委員七名、中央委員候補七名が選出され、中央委員には、徳田、志賀、金天海、袴田、神山、宮本、黒木の順で、金天海は序列三番目であった。
同候補委員は、宋性徹、志田、紺野、蔵原、春日、岩本、松崎の七名であった。ちなみに、この大会の費用も、大半が朝連が負担したという。
そして、同十二月十二日の党拡大中央委員会では、朝鮮人部長金天海、副部長金斗鎔が任命され、宋性徹(関西)、朴恩哲(関東)らが責任者となって活動した。
このように、金天海は日本共産党中央委員会の政治局員であり、朝連と日共の結びつきは非常に強いものがあった。
民団が結成されたころ
朝連が左傾化していくにつれ、これに反対する非共産主義者らの青年が、一九四五年十一月十六日、洪賢基らを中心に朝鮮建国促進青年同盟(建青)を結成し、朝連と激しく対立していくことになった。 一九四五年(昭和二十)十月二十七日には、朴烈が、秋田刑務所から出所した。金天海より半月ほど遅れての出獄だった。
政治犯は即時釈放というGHQ指令により、朴烈も十月十日までに釈放されるべきだったが、日本政府が、大逆罪の犯人であって政治犯ではないと言い張って、朴烈の釈放を拒んでいたのである。
秋田県の大館駅前広場で催された朝連主催の朴烈出獄歓迎大会には一万人をはるかに超す朝鮮人が参加し、太極旗を振りながら「朴烈万歳!」を叫んで迎えた。そして、朴烈を自動車に乗せ、朝連秋田県本部へ向かって大行進が始まった。
また、朝連は、東京・日比谷公会堂で盛大な歓迎大会を開くなど、朴烈の朝連加入を猛烈に勧誘したが、共産主義を毛嫌いしている朴烈はそれを敢然と断った。
そして、朝連の左傾化を不満としていた李康勲、元心昌、権赫周らと、四六年一月二十日に新朝鮮建設同盟(建同)を結成し、委員長となった。
朴烈の反共意識の強さは、『太い鮮人』第一号に「記憶すべき日」と題するコラム欄で、「五年前、即ち一九一七年十一月七日、その日は露西亜の〇〇を堕落に導いた最初の日である、ボルシェビキがロマノフ家にかはってロシアのプロレタリアートを最初に搾取した日である。万国のプロレタリアは此の日を記憶せよ、再びこの失敗の轍が踏まぬやうに」と書き、ロシア革命を痛烈に攻撃していることからもわかる。
朴烈は、当時のマルクス主義が説いていた「大衆による革命と議会主義」という生ぬるい手段では、革命も独立もありえないとし、それを達成するためには、天皇一族や権力中枢層に捨て身で飛び込んで爆弾を投げるとかの直接行動のほかにはありえない、と信じこんでいた。
すなわち、革命は大衆のできる業ではなく、死を賭した少数精鋭のアナキストによる直接行動(テロ)によってのみ革命は達成されると信じ込んでいたのである。そして、マルクス主義を卑怯な変節思想とみなしていたのである。
そうした朴烈の反共主義に率いられた建同と建青が大同団結し、一九四六年十月三日に在日朝鮮居留民団を結成し、全国的な組織づくりに乗り出した。が、いち早く全国組織を確立した朝連の後塵を拝することになり、朝連の暴力闘争に翻弄されることになった。
朴烈の出獄が、もし金天海と同時か、あるいは少しでも早かったら、全国組織の確立は逆転していたかもしれないと指摘されている。
一九四八年(昭和二十三)秋ころ、朴烈、姜馨、李康勲、元心昌、韓睨相、玄孝燮らによる金天海暗殺計画が練られているとの風聞を、朝連が察知するところとなった。
逆に、金天海暗殺計画の首謀者の一人、建青副委員長の玄孝燮(大韓民報社長)が翌年一月十三日、東京上野で、民青組織部長の韓基栄、張仁木、金明玉らに拳銃で顔面を狙撃され、暗殺されたのである。
朴烈は、その後、民団中央本部の団長を辞め、韓国に帰国したが、韓国動乱(六・二五動乱)勃発の日、北に拉致されたという。
そのとき、ソウル郊外の料亭で宴会を開いていた最中で、そこへ北朝鮮軍の特殊部隊が侵入してきたということだった。それは、朴烈の動静を調査したうえでの計画的な拉致だろうと見られている。