黄七福自叙伝19
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第1章 祖国解放までのこと
朴春琴という国会議員のこと
一九二一年、李起東、朴春琴らが親日融和団体の「相愛会」を設立した。朴春琴の名は親から教えられて、国会議員だということだけは知っていた。
「朝鮮人が日本の国会議員になった」と、心のどこかにあこがれるものがあった。今思うと、被圧迫民族というものは権力が常にほしいわけで、国会議員もその権力の象徴と感じていたからだろう。
しかし、同胞のあいだでは冷ややかな評価だった。朴烈や金天海を紹介した中でも、親日団体は、民族反逆者として厳しく糾弾されている。
参考のために、朴春琴の経歴を簡単に述べる。
慶尚南道出身で、一九〇六年に渡日した。土木作業員から手配師となり、清水組や佐藤工業、飛島組、熊谷組などの仕事を請け負った。
一九二〇年に李起東らと朝鮮人労働者相互扶助団体である相救会を結成した。相救会の活動には土木工業会や前朝鮮総督府警務部長だった丸山鶴吉から支持を受けた。
翌一九二一年には相救会を親日融和団体である相愛会に改組、副会長に就任した。
一九三二年には東京府から衆議院選挙に出馬し、当選、二期務めた。政治家としては、朝鮮人・在朝日本人の参政権と朝鮮人志願兵制度を請願した。
協和会という組織もあったが、指導員というのが朝鮮人で、日本人の手先となり、同じ朝鮮人を日本人にしようと荒々しく動いていた。
その大立者が朴春琴だったが、私は学生の身分ということもあって、協和会には関心がなく、縁もなかった。
協和会とは戦時下おける朝鮮人の抑圧・統制組織で、治安維持による日本国内の戦時体制の確立と皇国臣民化による朝鮮人労働者の動員を目的とした。
その組織は府県単位で、各警察所管内ごとに支会が設置された。協和会の具体的な活動は、神社参拝、和服着用、神棚の設置、国防献金などであった。
祖国の歴史のこと
植民地下の祖国は、言葉はもちろん、歴史さえも好き勝手に改ざんされた。
私は、祖国を出るとき、一九二八年(昭和三)発行の『朝鮮の歴史』という本を持ってきた。漢字とハングルまじりの本だが、その本をときどき開いては祖国の歴史を勉強している。
それによると、昔は、朝鮮半島からあらゆるものを日本にもたらしたと書いてあり、王仁博士による漢字の招来はもちろん、四天王寺や法隆寺の建立に、新羅が多くの金を寄付したことなども記している。
日本社会の中では、韓国(朝鮮)は昔から日本の植民地のような見方をする人が多いが、朝鮮通信使の時代までは、朝鮮の文化の方がずっと上で、朝鮮が先進国で、日本が後進国という状況が明らかだ。
豊臣秀吉の朝鮮出兵で、多くの陶工が拉致され、有田焼や萩焼の陶祖になったことは周知のことだし、それ以後、朝鮮の陶業は壊滅状態に陥り、日本の陶磁器が世界に進出していった。今でいう技術移転というものだ。
朝鮮で育まれてきたそういう技術が、いつの間にやら日本の技術として世界に紹介されている。それも、植民地時代における”朝鮮文化抹殺”政策による後遺症というものだ。
『朝鮮の歴史』という本を参考に、私が日ごろの見聞でイメージした祖国の歴史は次のようなものである。