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黄七福自叙伝「私がうまれたところ」/「私が生まれたころ」

 

黄七福自叙伝02

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第1章 祖国解放までのこと

私がうまれたところ

私は、一九二二年(大正十一)三月九日に慶尚北道蔚珍郡温井面徳仁里で生まれた。昔は江原道に属していたが、一九六三年に慶尚北道に編入された。

蔚珍郡の歴史を簡単に述べると、古代部族国家時代には波朝といい、滅(江陵)、 直(三件)、波朝(蔚珍)を創海三国と呼んだ。

三国時代は、最初新羅に隷属していたが、高句麗長寿王のとき(四五八年)、高句麗の領土になり、于珍也郡(蔚珍)と呼ばれ、後で古于伊郡と改名した。

統一新羅時代は、于珍と称され、後に三国統一の功労者である金庚信将軍により山河が鬱蒼し、山野に金銀などの宝物が多いということで尉珍と呼ばれるようになった。

景徳王の時代(七五七年)に行政区域が改編され、漫州(江陵)の下の蔚珍郡とされた。

高麗時代には平海県に改名されたが、一時、統一新羅の名称であった斤乙於県とも称された。

朝鮮時代には蔚珍県と平海郡になり、高宗(在位一八九七~一九〇七年)のとき、全国が十三道に分けられ、江原道に属するようになった。

一九一四年に平海郡を統合し、江原道蔚珍郡となった。

温井面の近くに、平海郷校という書堂がある。

平海郷校はもともと高麗恭惑王のとき(一三五七年)、平海の東側の半月山麓に創建された地方教育機関(現在の中等学校)で、高麗時代には郷学(中央=国子監)、朝鮮時代には郷校(中央=成均館)として継承された教育機関である。

朝鮮時代に松陵洞へ移築、その後大成殿が修造され、明倫堂も修理された。さらに、一九七七年には太和楼が復元され、現在の姿になった。

仏影寺渓谷は、奇岩怪石と深い渓谷、青い水の絶景で、一九七九年に名勝第六号として指定された。夏は避暑地として、春と秋はドライブコースとして人気があり、冬は雪景色を楽しめる。

仏影寺は尼寺だが、新羅・真徳女王のとき(六五一年)、義湘が建てたと言われている。

当時、この地域の川上に五人の仏の姿を見て、そこに住んでいた竜を追い出し、寺を建てたという伝説が伝わっている。

温井面にある白厳温泉は、新羅時代の猟師が鹿を見つけたところに熱い泉が湧いていたという伝説がある。

その後、白厳寺の僧侶が温泉を作り、患者を風呂に入れると、その効果があったので、高麗時代に県令が地元の人々に管理させ、大きい花崗岩で石箱を造り、屋舎を造って、一般の人に利用させたという。

白厳温泉は一九七九年、国民観光地として指定され、韓国唯一の硫黄温泉で神経痛、慢性関節炎、動脈硬化などに効果があるとされる。一九九七年には観光特区に指定された。白厳山観光農園も人気がある。

温井面の近くには郎山海水浴場や厚浦海水浴場があり、デゲという竹カニと松茸が特産品である。蔚珍デゲ祭りや尉珍松茸祭りなども行われている。

デゲは、身体が大きく、身体から竹のようにまっすぐ足が伸びている。名産の松茸のことは、いまさらいうまでもあるまい。

 

私が生まれたころ

祖国は一九一〇年に日本に併合されたから、私は、祖国が日本の植民地になって十二年目に生まれた。一九一九年の三・一独立運動からは三年が経ったころである。

周知のように、当時、祖国は日本の植民地で、われわれ朝鮮人は数々の圧政に呻吟していた。

日韓併合は、一九一〇年八月二十二日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて日本が大韓帝国(今日の韓国と北朝鮮に相当する地域)を併合してから始まり、第二次世界大戦終戦に伴う一九四五年九月二日のポツダム宣言受諾により、朝鮮支配は終了した。

その間、三十六年で、併合された日を「国恥日」という。植民地支配は、韓国では日帝強占期ともいい、「韓国併合ニ関スル条約」そのものが武力威嚇の下で締結されたものであり、その有効性に関しては大きな疑義が呈されている。

伊藤博文が初代統監となった一九〇五年から日本の支配下にあったが、一九一〇年八月二十二日、「日韓併合に関する協約」(日韓併合条約)を強要し、併合を断行した。

これにより名実ともに植民地となり、大韓帝国を朝鮮と改称、朝鮮統監府を朝鮮総督府に衣替えし、初代総督に陸軍大将の寺内正毅が就任した。

このとき、「立法事項ニ関スル緊急勅令」を定め、その第一条は「朝鮮ニ於テハ法律ヲ要スル事項ハ朝鮮総督ノ命令ヲ以テ之ヲ規定スルコトヲ得」というもので、朝鮮総督府の命令は法律そのものになった。

併合条約第一条は「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全永久ニ日本皇帝陛下に譲与ス」というものだった。

併合は、朝鮮の国王が申し出、日本の天皇が受け入れたという形式をとらせたが、実際は、寺内統監のもとで、併合条約を極秘に準備し、調印の日には首都のまわりに軍隊を集結させ、市内は憲兵が巡回するという軍事威圧をかけたなかでの締結強要であった。

併合が公表された八月二十九日、東京市内では国旗が掲げられて、祝杯があげられ、新聞の社説は、朝鮮人に「平和と秩序と進歩」が保障されたのだから、これを喜ぶべきだと主張する有様だった。

大多数は日本が世界の一等国になったという喜びに酔って、花電車や旗行列などとお祭り気分であった。

一方、石川啄木は、「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」という歌を詠んだ。朝鮮が、日本の植民地となったことを喜ぶ大勢のなかで、啄木ら少数の日本人は、日本の横暴を憂えたのである。

五千年の歴史を誇る朝鮮は、桓仁(桓国)、恒雄(倍達国)、桓倹(檀君朝鮮)の三聖の「神位」を祭ってきたが、日韓併合によって、その奉祭が廃止され、三聖堂の建物も壊されて木材として売られたという。

後に、日韓併合を正当化するために軍部によって歴史の改竄が試みられ、日韓古代史の偽造に狂奔するという有様だった。

日本の学者らも、韓半島での任那日本府を立証するために、併合直後から血まなこになって韓半島南部全域を掘り返したが、任那日本府の存在を証明する遺物や遺跡は何一つ見つからなかった。

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