黄七福自叙伝40
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第3章 民団という組織のこと
阪本紡績のこと
「在日」の経済人で本国に貢献したのはまず阪本紡績だ。阪本紡績が韓国に進出して、仁川に邦林紡績、大郎にユンセン紡織という会社を設立したが、ユンセン紡織が火事になり、資金繰りが苦しくなった。日本にある本体の阪本紡績も、本国に投資して苦しい台所状況だったと思う。
韓国政府に融資を申請したが、なかなか許可がおりなかった。阪本紡績の依頼で、私は韓国へ飛んだ。時の総理大臣は金鍾泌だった。
「差別と弾圧に耐え、血と涙の結晶が、現在の在日同胞だ。そして、愛国の情から本国の経済発展を願い、本国に進出した。それが思わぬ災害に遭っている。やはり本国で善後策を講じるべきだ」と熱弁を振るった。
また、青瓦台かどこか覚えていないが、
「本国がこういう温情のない状態だったら、在日同胞はどこへ行けというのか」
と、涙を流して言った。
力がないのに正義感が人一倍強いから、そういう言葉になってしまった。
必要資金は三千万ドル、日本円で三十億円だった。国家財政がそのような規模にまで達していない時期だったから、韓国にとっては大きな額だった。
しばらくして、金鐘泌首相が日本にきて、
「政府として融資するためには、邦林紡績の株券が担保に必要だ。無傷の株券だ。返済が完了すれば、株券は返却する」
と言ってきた。
それを承知し、韓国外換銀行香港支店を通じて三千万ドルの融資が実現した。
その話が進行している最中に、韓国の有力紙である東亜日報に、黒い写真と白い写真が掲載され、日本では「阪本」、韓国では「徐甲虎」というタイトルがついて、阪本紡績に対する温情味のない悪質な中傷記事が載った。 「阪本」は日本人、「徐甲虎」は韓国人という意味で、日本人か韓国人か、民族性がはっきりしない徐甲虎社長(阪本紡績)に、税金を投入するとは何事かという内容なのである。
この悪質な中傷記事を糾すべく、私は青年を連れて、東亜日報へ抗議に乗り込んだが、社長の金相万は雲隠れしてしまった。
後日談になるが、金鍾泌に、新聞社の中傷記事のことを話すと、外国からきた紡績業者との勢力争いで、結局、排斥しようということになったのだろうと言っていた。在日同胞の企業も外国企業とみなされているのだ。
私が勲章や博士号を授与されたとき、丁一権がソウルで祝賀会を開いてくれた。
そのとき、各新聞社の社長も招待し、阪本紡績の中傷記事を載せた東亜日報の金相万、朝鮮日報の朴一龍、韓国日報の張基栄、ほかに中央日報の李社長らがお祝いに駆けつけてくれた。
徐甲虎が一九七六年十一月、肺炎のためソウルの自宅で永眠した。六十一歳という若さだった。追悼式が十二月、民団大阪本部講堂で執り行われた。
阪本紡績の社長として一世を風靡し、また本国貢献の気持から邦林紡績などを設立して幅広い経済活動に奔走していた。
金剛学園の第三代理事長として民族教育、あるいは民団大阪府本部の組織活動などに多年間にわたり多大の私財を投じ、同胞社会の発展に大きく貢献していたから、在日同胞社会にとっても、大きな痛手であった。
テコンド協会の会長のこと
大韓テコンド在日支会と在日大韓空手道協会の合併による「大韓テコンド日本総本部協会」 の結成式が、一九六九年四月、大阪興銀本店会議室で開かれ、私はこのとき、会長に選出された。理事長は金泰鎬だった。
テコンドは韓国の国技で、日本に紹介されたのは一九六二年のことである。
当時、日本拳法を習得していた在日韓国人学生らが訪韓し、拳法とテコンドとの親善試合を行い、帰国後の一九六二年十月、「在日本大韓テコンド協会」を創設して、日本でのテコンドの指導と普及に取り組み始めた。
そこで、私は微力ながらも、日韓親善を基本精神に国籍を超えたテコンドの振興に力を注いだ。
日本の武術には拳法、空手、合気道などいろいろとあるが、テコンドもそれらの武術と同様に武器を使わず、素手と多彩な足技で相手を一撃のもとに倒すことを目的とし、特に足技の強烈さに特徴がある。
テコンド本来の本質は防御技術にあり、それは平和を尊重する精神に通じる。
その当時、世界では百五十カ国、約五千万人がテコンドを愛好し、修練しているといわれている。
そして、一九七三年にはWTF(世界テコンド連盟)が創設されて、第一回ソウル世界選手権大会が開催され、以来、二年毎に開催されるようになった。
一九八八年のソウルオリンピックでは模範競技として採用され、二〇〇〇年シドニーオリンピックでは正式種目として採択された。