いつも行っているスーパーの入り口には、ずいぶん前から正月用の松飾が販売されている。
見かけたのは2022年の12月初旬だったから、気が早いと思っていたけれど、今のこの執筆時点の12月下旬になると、もう気分的には2023年になっていると言っていいかもしれない。
後は大みそかだけを残した日々なのだが、仕事もほぼ終わったので、何か有給休暇を消化しているような気持ちになっている。
後は、しばらく放置していた年賀はがきのあて名書きや机の内外の整理、掃除などが残されている。
私は机のまわりや本棚などが雑然としていて、ほとんど整理していない。
これは性格もあるだろうが、基本的にまわりに仕事関係や趣味関係の資料や書籍がないと、落ち着かないのである。
鞄やリュックにも、その日使う書籍だけではなく、気になったものを詰め込んでしまうので、いつも子豚のように膨らんでいる。
その重さのために大変なのだが、どうしても軽いままだと何か足らないという不安に襲われてしまうのだ。
貧乏性というやつである。
かといって、詰め込んだ書籍や資料を使わないままで終わってしまうことも、ままあるから厄介だ。
一時は仕事場にパソコンがあるにもかかわらず、私用のノートパソコンを詰め込んでいたのだから、何をかいわんやである。
こうした性格は、血液型のA型から来ているのかもしれないと思うこともある。
といっても、血液型占いは科学的根拠がないと否定されているので、そう思わないと、納得できないからだろう。
いずれにしても、年末の宙ぶらりんな状態は落ち着かない。
年末恒例のベートーベンの第九交響曲も、まだ聞いていないが、気分だけは新しい年に向かっているというところ。
それにしても、第九を聞いていると、どうして気分が昂揚し、自分が指揮者になったように途中で手を振りたくなるのだろうか。
だいたい後半の終曲に向かって合唱の歌声がクライマックスになると、歌声の行進に合わせて思わずパフォーマンスで指揮をしている。
不思議だけれど、日本人の感性に打てば響くような曲調や合唱の一体化といったクライマックスが、日本人の同調しやすい性格に合っているのかもしれない。
第九を聞くと、やはり1年の締めくくりの儀式が終わったという感さえある。
それは年末に行われるNHKの紅白歌合戦のようなものをそこに感じるからかもしれない。
といっても、最近は、その紅白歌合戦も昔のような多くの人々が必ず視聴するというような国民行事感が少しずつ失われていることは間違いない。
参加する歌手も、演歌歌手が少なくなり、若者向けの構成になっていて、全世代的なものではなくなっていることもあるだろう。
歌というのは、人々の意識や時代の象徴であることは確かなので、早急な判断はできないけれど、日本民族のアイデンティティの分断、世代間の意識の格差などが進行しつつあるとみることもできる。
家族一緒に楽しめる文化だった紅白歌合戦も、視聴率や消費者世代である若者世代をターゲットにしているテレビメディアの動向と無関係ではないのだろう。
今はそれでも、そんなに影響はないかもしれないが、やがて、この亀裂といったものが、伝統行事と化していた紅白歌合戦をただの年末に行われるエンターテインメント行事にしてしまうことは明らかである。
であれば、見なければ年を越す気分にはなれないというものから、見なくてもいい番組の一つというジャンルに収まることになるだろう。
それは時代の流れとして仕方がないとしても、私のような古い世代にとっては、寂しいことである。
とはいえ、出場歌手が見慣れたタレントではなくなったここ数年、あまり見たいと思わなくなっていることも確かである。
新しい年を迎えることも、かつてはわくわくするような、不思議な昂揚を感じさせる宗教的な雰囲気があったけれど、今ではただの通過点のような感慨さえ覚えることもままある。
それを証明するように、年末から年始にかけてのカウントダウンというイベントと化しているといっていい。
そこには宗教的な伝統精神はなく、ただの時間のカウントダウンを通じて、新しい年を迎えるという物理的な時間感覚が背景にある。
カウントダウンをしながら、時計の秒針が12時を超えたときに、新しい年の到来を感じるというのは、やはり伝統的なものが薄れていることと無関係ではない。
精神的な時間把握ではなく、唯物的な時間の捉え方のような気がする。
古来からの時間意識は、そうした物理的なものではなく、そこには自然の時間とともに生きて来た日本人の精神が投影されていた。
古い年を送り、新しい年を迎える。
それは一年という時間を人間の生老病死にたとえるような、誕生から成長、そして老年を迎えるプロセスを感じさせる。
そこに死によって終わり、新年という再生を通して生まれ直すといった日本人特有の人生観や哲学が横たわっているのではなかろうか。
いずれにしても、自然とともに生きていた日本人が、自然の摂理から離れて、近代化していった過程とも重なるものがあるといっていい。
ところで、一年の計は元旦にあり、ということわざがある。
それはそうなのだが、正月のような挨拶や新年行事で忙しい期間、一日で一年のことを考えるというのは、なかなか難しいのではないか、という気持ちが私にはある。
年末にすべての課題を振り返り整理して、新しい年に新しい計画を立てるというのが理想ではあるけれど、それが難しい面がある。
そう簡単に物質的な問題ならいざ知らず、精神的な課題や問題は、そう容易に振り返って整理はできないのではないか。
その意味で、正月の間は忙しいけれど、仕事などから解放されているので、昨年の反省と一年の出発の計画を立てるのにふさわしいのではなかろうか。
少なくとも、一月いっぱいの方が余裕をもって考えられるではないかという気持ちが、私は毎年の計画の失敗から思っている。
(フリーライター・福嶋由紀夫)