この原稿を書いている時点は、12月の年末、あとわずかで新しい年を迎えることになる。
新しい年をただのんべんだらりと迎えそうなので、少しばかりこの1年間を整理してみる。
といっても、世界情勢を振り返って評論家のように真正面から取り上げたり、国内の政治や社会事件を分析したり論じたりはしない。
そんな任に自身は向いていないと思うし、出来事や世界情勢も、その時は衝撃的だったり、印象的だったとしても、今の自分の心を探ってみても、そのかけらもあまり残っていない。
これは現代という時代が、あまりにも情報にあふれ、そして、刺激的な事件や世界情勢であっても、それに深く関与していないこともあるだろう。
やはり現代の情報は、劇場的ではあっても、それが終わるころになると、記憶の中から少しずつ消えていく運命にある。
そうでないと、心の器が壊れてしまうということもあるかもしれない。
これが昔ならば、情報が少なかったので、いつまでも記憶に残り、語り伝えられていくのであるが、多すぎると消化不良を起こしてしまうのである。
その意味では、情報は洪水のように過多ではあるけれども、心の中に留まるものが少ない情報の枯渇した状態とも言えるだろう。
この情報の洪水を渡るには、それなりの舵取り、すなわち確固とした姿勢や思想という船がなければならない。
その点でいうならば、これから書くことは、あくまでも、私自身が今年1年を顧みて思うところをのべてみたい。
実は、こういうことを書くのも、読売新聞などの「今年1年の十大ニュース」の資料を見ながら、それぞれの項目に思い当たることが多いのだが、それ以上の感慨がなく、しばらく活字を見ながらうなってしまったことがある。
国内ニュースでいえば、1月の箱根駅伝に駒大が逆転優勝から始まっているが、確かにその時はひどく驚いたものだが、そして感動もしたのだが、その後、大坂なおみのテニス全豪Vなどもあって、すぐに記憶から薄れてしまった。
また、スポーツ関係では、4月にはゴルフで松山英樹のマスターズ優勝があり、全米女子OPでも、6月に笹生優花の優勝と続くので、イベントとしても、次々に新しいニュースが積み重なっていき、前のもののニュースが忘れられていくということもある。
特に、新型コロナ禍のために1年延期されての7月の東京五輪開催では、日本が史上最多の58メダルを獲得したことが印象的だった。
テレビにかじりついて応援したことなどが懐かしい。
といっても、選手の頑張りも凄かったが、それよりも、開催反対にマスコミの多くが声を上げたということもあって、ひときわ印象に残った気がする。
改めてマスコミが、本当の意味で、社会の木鐸(ぼくたく)であるよりも、言論を通してキャンペーン的な世論誘導をしているという悪い意味での第四の権力といわれる負の面が大きかった1年だった気がする。
特に、テレビのバラエティー番組などは、そうした話題を追うだけの劇場型かつ視聴率中心のイエロージャーナリズム的な面を露出させていたことが気になった。
現代におけるジャーナリズムは、正しく物事を見つめ、一貫した姿勢で客観的に報道するというよりも、どこか先入観をもって意図的に視聴者を誘導するように構成されているという印象をぬぐえない。
しかも、ビジュアルであるために、ある場面だけを切り取ったり、意図的な方向性に編集された映像を見せようとしているという疑念を持つ。
映像はごまかしがきかない事実のみを映すということを言われた時期もあったが、ただ映像を放映することはないので、そこにカットや演出という編集作業が入る。
編集作業によって、事実に色が付けられ、事実とは反対の誤解を与えるような映し方も可能である。
その意味では、マスメディアの問題点も明らかになった1年でもあったように思うのである。
特に、10月の衆議院議員選挙では、自民党の議席が大幅に減少するというキャンペーン的な報道が盛んになされたが、事実はその報道とは逆に自民党が単独過半数を確保するという事態となった。
明らかに世論の読み間違えであり、正確な情勢判断をせずに、一方的に意図的な反自民党の報道をした事実誤認である。
それを仕掛けたのはマスメディア自身の偏向的な印象を与えようとした報道姿勢であることは間違いない。
むろん、マスメディアには、政権を監視し、国民に正しい情報を伝えるという使命があるのは言うまでもない。
政府の暴走を食い止め、国家の利益を守り「平和」な社会を守るという使命があるのである。
それだけだと民族主義的一国中心主義となってしまうが、今はグローバル時代であり、一国のみで単独で成立することはない。
食糧やエネルギー問題、環境問題だけを取り上げてみても、到底一国で解決できる事柄ではない。
その意味では、マスメディアは、国益を尊重しながらも、世界における各国との共生共栄を目指すものでなけらばならないのである。
国家を超えて平和に共存していくためには、今の世界情勢の中で、どのような方向性に国民を導いていくか、そのための言論活動、すなわち責任を持ったマスメディアの姿勢と信念が重要であることは言うまでもない。
その意味では、言論活動が単なる批判であったり、無制限に個人主義的な権利を主張するような放縦な報道は問題であるだろう。
個人主義の限界を見つめ、社会の共生と調和、そして、そのための教育環境を作り上げる道徳倫理などについても、積極的な発言が求められるといっていい。
道徳倫理などというと、戦前の軍国主義的なイメージで、拒否反応を示す人がいるかもしれないが、その本質を考えれば人間形成の上でも社会生活を構成する上でも、非常に無くてはならない要素である。
なんでも反対することが客観報道などではない。
正しく国民が判断できるような情報を左右のイデオロギーに関係なく、正しい事実を提供できるか否か。
それこそが重要なマスコミの使命であることに、そろそろ気づかなければならないのである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)