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2025年こそは良いことがありますように

年頭に当たっての祈りは、だれしも不幸を願うことはないだろう。

 無病息災、家内安全が基本だが、中にはお金持ちになりますように、受験に合格しますように、出世しますように、という欲望まみれの願望をむき出しにした願いもあるだろう。

 それが悪いとは言わない。

 だれしも幸せになりたいと思うのは万国共通だからである。

 そうした思いや願望に始まっても、年の終わりになると、叶った願いよりも叶わなかったことが多いというのが実感ではないだろうか。

 統計を取ったわけではないが、満足して一年を終える人はそんなにいないだろう。

 だからこそ一年の厄を払い、新たな気持ちで新しい年を出発したいと思うのである。

 しかし、なかなか気持ちとしては、そう割り切れるものではないのが人間の心理である。

 だからこそ、年末の行事やイベント、クリスマスや年の瀬のベートーヴェンの「第九」の合唱などを聞いて、ようやく「ああ今年も終わった」という実感を伴うようになる。

 もちろん、本来ならば、おおとりのイベントとして「除夜の鐘」をわすれることはできない。

 あの「除夜の鐘」の長く尾を引く音が静かな夜を通して響いてくるときの気持ちは、何とも言えない心持ちになるのだが、今ではそんなイベントは地方に住んでいないとなかなか味わえなくなっている。

 しかも、騒音としてクレームをする人もいるほど、日本の伝統的な年の瀬を感じるものが少なくなった。

 かろうじて、「ゆく年、来る年」などのテレビ番組などで放映される日本各地の放送を見ながら、バーチャル的に感じるぐらいである。

 最近は、実際に体験するよりも仮想空間で参加したような疑似体験をする方が主流になっているといってもいい。

 これまで大切に守ってきた祖先たちの墓でさえ、忘れ去られていまい、墓参りもしなくなっていく傾向が増えている。

 この背景には、今住んでいるところと父祖の眠る墓のある地方があまりにも距離があって、訪ねることが難しくなっているという事情がある。

 実際、そうした距離的なこともあって、「墓じまい」などをしている動きもある。

 しかし、よく考えてみると、こうした傾向の背景には、距離が遠いなどの物理的な問題よりも、心情的な問題が大きいのではないか。

 人間は自分が好きなものであれば、環境はどうであっても、距離も関係なく、遠くまで出かけたいという衝動を持っているからである。

 自分の応援している推しのタレントのために、地方の巡回公演についていったりするケースは多い。

 歌手や俳優だけではなく、応援しているスポーツ選手の生の活躍を見てみたいと思って、はるばる国外まで出かけてしまうファンがいるのはよく知られている。

 熱狂的なサッカーファンなどもそうであり、アメリカのプロ野球で活躍している大谷翔平選手を見るために航空チケットと高い旅行費を払って見物に行くファンもいるほど。

 こうしたケースを考えると、墓参りなどが少なくなっていったのは、物理的な距離の問題というよりも、そうした行為に対する心情の距離が遠くなってしまったということが大きいのではないか。

 すなわち伝統的な先祖崇拝、家族のルーツに対する敬意が薄れたこと、そして、都会の家族関係が大家族ではなく、少子化の夫婦の関係によって個人主義的になっていること、要するに伝統文化・習俗習慣の衰退があるのではないかと思っている。

 何のために墓参りをするのか。

 現代の核家族化した都会人にとっては、それはたんなる伝統的な習慣の延長であり、どうしてもしなければならないという義務感や切迫感がない行事になっているのである。

 核家族化した民主主義の現代は、まさに個人主義の時代であって、そこには全体的な社会の構成員であるという自覚が希薄化し、孤立的な生活となっている。

 であれば、生きているうちは、生んで育ててくれた両親に対しては、それなりの恩義や感謝は感じても、それ以上の先祖たちは、ただ儀式的に訪れるだけの形骸化した習慣に過ぎないと思っている面がある気がする。

 先祖が何の恩恵を自分に与えてくれたのか。

 普段の生活には、親は支援してくれたりする存在で身近に感じるが、祖先は見えないし、直接何かを与えてくれる存在ではない。

 顔も知らず、交流もない死者たちに過ぎない。

 無意識にそう思っていても不思議ではない。

 だからこそ、はるか遠くになったふるさとの祖先の墓参りに対しての気持ちが薄れてしまうのである。

 もし、これがタレントの追っかけのような推しの魅力があったり、何等かの現実的な影響があると感じていれば、墓参りを距離が遠い、めんどくさいイベントなどとは思わないだろう。

 個人主義、物質主義の中で育った世代にとっては、無駄な行為、意味のない伝統的な習俗といったものとして受け止められていないのである。

 見えないから信じない。

 そうした日本近代主義を推進してきたダーウィンの進化論的な考え方が、現代の若い世代にとっては当たり前の常識なのかもしれない。

 そこには、宗教を古臭い無知な者が信じるものと思ったり、伝統文化を合理的ではないと思ったりする精神的な心理が働いているといっていいのである。

 だが、見えないものが本当に何の影響を与えないか。

 存在していないものとして無視していいのか。

 人間は死んでしまえばおしまいなのか。

 霊界というものが存在するのか。

 個人主義的な民主主義がどのような未来をもたらすのか。

 そのようなことを考えなければならない時代が、もしかすると、始まろうとしているのかもしれない。

 2025年には、そんなことを考えなければならない。私はこの頃考えるようになっている。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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