このところの連日の暑さで、何も考えられないという人もいるはず。
かくいう私も、パソコンの画面を見つめながら、暑さと湿度のために、頭が働かないのを感じている。
キーボードの英字の上を5本の指がさまよっているばかりだ。
ふつうならば、ある文字を打っていくと、靄の中から青空が見えて来るように、思考のシナプスがつながり、イメージが浮かんでくる。
そうなれば、あとは指と頭脳の戦いで、打つ速さがどれほど頭脳から降りて来るイメージを言語化していくかの勝負になる。
言葉がイメージを生み、それがまたイメージを呼び起こして膨らんでいくといった感じといったらいいかもしれない。
だが、そうした指と頭脳のコラボレーションがうまくいくまでは、しばらく時間がかかり、そのための長い無為の時間が必要となる。
頭脳のエンジンが起動するためには、車に燃料を入れ、ギアを入れ、そしてスタートするようなプロセスがある。
といっても、車の場合は、エンジンの始動はシステマティックに一連の起動は、手続きさえ誤らなければ、自動的に発生する。
そこには感情が入る余地がない。
ところが、物事を表現するというのは、ビジネス文書のような書式と目的が決まっている場合とは例外として、それこそ雲をつかむような頼りなさ、手ごたえのない時間を過ごすことを通じて、書くべき内容が形成されていく。
そのためには、外目から見ると、何もしていないような、それこそ遊んでいるような姿に見えるらしい。
それを戯画化すれば、ステレオタイプの作家が頭を掻きむしりながら、書いては原稿用紙をまるめて屑籠に捨てるといったシーンになるだろう。
今では原稿用紙を使う人は手書きにこだわる作家以外には、ほとんどいないので、パソコンに向かって意味もなくうなったり、コーヒーをがぶ飲みしたり、音楽を聴いたり、本を読んだりといった挙動不審な姿となるかもしれない。
とはいえ、AIで文章を書いてもらうというのができる時代になったので、それに頼ってしまえば、こうした挙動不審さもいらなくなるのだが、そうなると、創作という人間のアナログ作業さえ、AIで可能になってしまう。
これまでは、ロボットやAIが導入されても、単純労働のような分野では人間ができる範囲が無くなるという予測がされていた。
その意味では、単純労働の失業者が出て来るという問題が指摘されていた。
しかし、そうしたAIが人間の労働などの分野に進出しても、芸術分野のような人間的な分野、個性と感性と創造の世界はAIには不可能だろうとこれまでは考えられていた面がある。
クリエーターは、自分の分野をAIが侵食するなどとは、思っていなかったのではないだろうか。
だが、今やAIは頭脳労働の世界までカバーできるような進化を遂げるようになった。
将棋の世界での活用は言うまでもないが、詩や小説、グラフィックの世界まで、AIまかせで創作できるようになっている。
日本では、まだ本格的ではないが(芥川賞作にAI活用のものがあったと記憶している)、アメリカではAIで小説を書き、それをそのまま雑誌などに投稿しているというニュースを以前に読んだことがある。
それはSF雑誌だったと思うが、あまりにもAI作品が多いので、編集者が本人のものかAI作品のものかの区別がつかないので、悲鳴を上げているというような話だった。
小説だけの世界ではない。
人間が演じる映画の世界でも、俳優自身を採用するよりも、AIを使った方が安上がりということで、俳優組合が抗議をしているというニュースもあった。
そうなると、人間がああだこうだと頭脳を振り絞って、ようやく生み出せる芸術作品も、その多くはAIなどで可能になってしまうかもしれない。
いや、現実的にはそうなっている。
こうなってくると、いったい芸術とは何だろう、本当に人間しかできない分野なのか、といった疑問にもとらわれる。
もちろん、個性というものを考えれば、芸術にはAIではカバーしきれない人間の深層に潜んでいる創作意識といったものに突き当たるかもしれない。
そうした趣味や性格、生い立ちや環境による独特な感性から来るオリジナルな発想と表現は、AIのようなものでは再現できないかもしれない。
この点は、専門家ではないのでわからないのだが、そうしたサンクチュアリのような聖域が人間にはあって、それをAIはカバーできないという見方も一理ある。
だが、考えてみると、オリジナルとは何か、ということも考えなければならないのではないだろうか。
たとえば、美術の世界では、著名な絵画の精巧な贋作が横行していることは、よく知られている。
オリジナルと贋作の区別は専門家でも難しい。
美術館で飾られている絵画が贋作であったという事件もそれほど珍しいわけではない。
マネができるもの、再現できる原作は、どこで線引きできるのか。
むろん、本物のもつ輝き、そのオリジナルな点は尊重されなければならないが、それをコピーしても、専門家は別として一般人は感動できるものがある。
西洋絵画の複製でさえ、それが本物か偽物かといった判断は別としても、感動できるものがそこにあるのだ。
改めて、芸術作品のオリジナルとは何か、それを考える時期に来ているのかもしれない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)