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ジャーナリズムへの個人的な感想

 テレビのバラエティー的な報道番組を見ていると、コメンテイターとしてジャーナリストではないタレントなどが出てきて、もっともらしい発言をするのが当たり前になっている風潮がある。

 学者でもないタレントや芸人が果たして、事実を正しくとらえ、自分の考えを述べることができるのか、と思っていると案外、まともな意見を述べていたりする。

 しかし、あれは個人の考えなのだろうか、それとも番組の構成に沿ったあらかじめアウトラインが決められたセリフをしゃべる役割を演じているのだろうか、と疑いもする。

 なぜなら短時間の番組の中で、事実をどう考えるかという論点で追究するには時間がないはずだからだ。

 必然的にわかりやすい二項対立、賛成派と反対派に役割分担を決めておいて、そこで紋切り型の討論をさせて、いかにも深く問題を掘り下げていると思わせるシナリオが背景にあったりするわけである。

 それが極端だったのは、例としてはふさわしくないかもしれないが、UFOが存在するかどうか、賛成派と反対派を並べて討論させる番組だった。

 UFOが存在するかどうか、というテーマ自体、討論に値するものなのかどうか疑問があるが、いかにも白熱した論争が展開されて視聴率を獲得していたことを覚えている。

番組自体ではありませんが、対談の名物人物たちを採用した映画のCMです。

 要するに、事実よりも面白いかどうか、といった観点で、番組が構成されていて、その激論やケンカを面白く見せようとしたのだ。

 そのあたりは、ある意味でショー化した決まったシナリオがないドラマということができるかもしれない。

 テレビにおけるニュース番組が事実報道にとどまらずに、ショー化するようになったのは、視聴者が事実だけではついていけなくなった、あるいは事実をもとに自分で考えることを放棄してしまっているということがある。

 かつて、一時代を画した評論家の大宅壮一は、テレビなどによって日本人が「一億総白痴化」すると言っていたが、テレビのニュース番組はそうした自分で考えないで済むという楽をさせてくれる機械であるといっていい。

 要するに、考えることは番組に出ている賛成派や反対派のタレントがしてくれるので、そのタレントが言っていることに共感すれば、いかにも自分がそう考えたかのような錯覚を与えてくれるわけだ。

 もちろん、テレビにはいい面もあり、それはニュースが可視化しているということで、見ればどのような事件が起こっているかがすぐにビジュアルに理解できるという利点がある。

 要するにわかりやすいのだ。

 それに対して、新聞などの活字メディアは、活字の文章を読むという自分で考えながら読まなければ理解できない。

 見出しを見て、リード文、本文などを読んで、何が起こっているのか、それを頭脳の中でシーンとして、あるいは思考して、初めて理解できる。

 テレビのように見ただけでは理解できないのである。

 そこに、文章を理解し、それがどういう意味を持つのかを判断しなければならないので、頭脳はずっとその間、回転していなければならない。

 その意味で、テレビと新聞は、同じ事実を報道していても、テレビは速く新聞はそれに対して活字を印刷して読者に手渡しにするという面でニュースを発信するにおいての時間差がある

 だが、本質的には速報性だけではなく、ただ見て情緒的に受け取るか、知的に考えるか、といった質の差があるのである。

 もちろん、今ではインターネットの発達で、速報性はテレビはネットに敗北し、速報性においては遅くなっている。

 ネット、テレビ、新聞、という風に時間差がある。

 しかし、テレビと活字メディアの新聞を比較検討したことからもわかるように、それぞれの持ち味、一長一短があることは間違いない。

 ネットは速報性では断トツだが、その代わり第三者の目が入らないために(テレビにも新聞にも事実の裏を検証するジャーナリズム精神がある)、事実と誤報が玉石混交で入り混じり、まさに垂れ流しのフェイクニュースがあふれかえってしまう。

 どれが真実で、どれがウソなのか。


 そうしたフィルターがないので、まさに巨大なデータやフィクションやファクトが整理されないままに横行する。

 まさに、混沌とした宇宙のようだが、もちろん、それはネットが多くの人々の目を通さない、個人主義的な欲望と妄想をそのまま発信する主観的なメディアだからである。

 ジャーナリズムには、客観報道という言葉があるが、ネットの報道はそうした姿勢はなく、ただ一方的な情報を垂れ流すだけだ。

 その点では、ジャーナリズムという範疇には入らない、個人的な、あるいは何らかの悪意を秘めたプロパガンダ的なメディアといっていいかもしれない。

 まさに、ユーチューブなどは、そうした側面をプラス的に打ち出した映像メディアと言えよう。

 こうした混沌としたメディアが生まれるのも、ニュース報道には一面そうした操作しやすい危うさが最初からあったからである。

 客観的報道を謳いながらも、同業者の事件や問題にはやや腰が引けた報道をし、スポンサーには配慮し、身内には少しばかり客観報道を控えるといった面がないではない。

 もちろん、すべてがそうではないが、そうした企業としての面も商売であるから持っている。

 メディアは影響力の大きさから公的な立場を取っているが、それでも、まったく営利や企業の立場から無縁なわけではない。

 また、客観報道という錦の御旗を掲げていても、ならば客観報道とは何か、ということを突き詰めていけば、まったく色のない事実というものはなく、その背景には様々な価値観や主義主張やイデオロギーなどがどうしてもつきまとっている。

 きわめて客観的な事実に迫っていく主観的な報道姿勢、といった方が正しい。

 数学や科学のような数式や実験で確実な事実を共通項目として出せるなら別だが、見る角度や思想倫理によってどうしても違って見えて来るのがメディアの客観報道の真実なのである。

 その意味で、メディアはいったい何を目指しているのか、ということが問われてもいいはずである。

 自由な報道という名を借りて、人類の未来を誤って誘導するような報道が果たして正しいのか、改めて考えてもいいのではないだろうか。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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