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長年の謎 漢字に潜む『文』と『武』

 王朝を新しく開いた王や英雄的な業績をもつ王に、「文」や「武」の名前を冠した死後に諡(おくりな)が与えられるのだが、いつも不思議に思っていたのは、「文」という諡についての疑問である。

 「武」については、その文字からして、武器を取って敵を征服したというイメージがあって、わかりやすいのだが、「文」についてはいささか気になる点がある。

 「武」のように解釈するならば、平和を開いた文化が栄えた時代の王というイメージなので、不思議ではないと言ってしまえば問題はないのだが。

 実は、「文」という字は漢字の成り立ちが、身体に彫られる入れ墨を意味しているという説がある。

 それによると、「文」は、中国古代文明の殷の漢字は、「胸の部分を強調して表示し、そこに文様(もんよう)を描いた形である。『文』は、のちに『文字』や『文章』の意味にも転用されたが、成り立ちとしては『文身(ぶんしん)』すなわち『入れ墨』だったのである」(落合淳思著『漢字の字形』中公新書)とある。


 すなわち、「文」のルーツは今でいうならばやくざや暴力団の人、その他格好いいと身体にファッション的な入れ墨をしている若者などの風俗になるわけである。

 儒教では、「身体髪膚(はっぷ)之を父母に受く、敢あえて毀傷せざるは孝の始めなり」(孝経)とあって、親から受けた身体に傷つけることは親不孝になるわけだが、それがなぜ儒教文化の漢字として重視され、英明で優れた王の名前に「文」が用いられるのか。

 これがなかなか納得しがたいものがあるが、もちろん、白川静博士などの研究で、漢字学的には、入れ墨は世俗的な身体を入れ墨によって「聖」化するという意味があるからだという。

 要するに、「文」は入れ墨をしたことで、世俗の人間から聖なる存在になった身体ということを意味するのだろう。

 生前に優れた業績を上げた王に対して、「文」という文字を捧げるのは、その治世のすばらしさによって、神々に認められる存在になったということを内外にお披露目する意味があったのかもしれない。

 漢字の由来としては、それでもいいかもしれないが、感情的に納得できないのは、やはり古代人の美意識や宗教感情が現代とはだいぶ違っているからである。

 現代の感覚からすれば、入れ墨を聖なるものとしては、なかなか受け入れられないといっていい。

 おそらく、古代人は神聖なる存在である神に対して素顔のすっぴんで対するのは恐れ多い、何か化粧をし、装飾品もつけ、そして正装して向き合ったのだろう。

 入れ墨は、そのために身体を傷つけることで、自分の身体を犠牲にしたというような宗教的な祭儀であったかもしれない。

 その後、入れ墨が化粧の一部になったりしたことは、魏志倭人伝の卑弥呼の時代の日本の習俗にサメなどの害から身を守るために身体に入れ墨をして海に潜ったことが記されていることからも理解できる。

 確か入れ墨をした風俗は世界各地に残っているはずである。

 元々化粧をしネックレスや宝石で身を飾ることは、美意識というよりも、それを通して神霊の加護を得るといった面があったのではないかと思う。

 いずれにしても、これは私の知識不足になるのだろうが、「文」は装飾的なものではなく、神々に供え物となるといった意味から来ていることは間違いない。

 とするならば、「文」は、この世のみならず、あの世における生というものを意識した名づけ方ではないのか。

 現代人は、霊界の存在を信じない傾向が強いので、仏教における称号や戒名などを否定しがちだ。

 それは死んだ者にとってはまったく意味がなく、後からつけられた戒名などは、生き残った者の慰めに過ぎないという見方になるからである。

 それはそれで一理あるのだが、自分の現在もっている名前も考えてみれば、自分でつけたものではない。

 親が子の将来を思って付けた願いが込められているのが名前なのだが、実際は、その親の願い通りに生きられているかというと、そうではないことが多い。

 これでは名前は符合や記号に過ぎないという見方を助長しそうだが、逆に言えば、その名前には意味がないのではなく、意味があるからその通りに生きられないという見方もできるのである。

 なぜならば、名前の背景には願いと同時に、その父母の家系にのしかかっている歴史、様々な問題や課題があるという考え方ができるからである。

 生まれて来た赤ん坊は、人間一個として考えれば、何にも染まらない白紙状態で生まれて来たと考えやすいが、その実は、身体的側面からだけ見ても、先祖代々や親の身体的なDNAを継承していることがある。

 スポーツ選手の子供が身体的に運動能力に長けていたり、その家系特有の病気にかかりやすい面があったりする。

 それはまさに、生まれた時にはまったくの白紙状態ではないということを示しているといっていいのではないか。

 そのことからすると、戒名なども、霊界を前提にすれば死後の世界での誕生に名づけをするという行為になるだろう。

 もちろん、これは単なる推測に過ぎないシロウト考えかもしれない。

 いずれにしても、名前というものは単なる記号ではなく、その背景に重要な要素を秘めているということ。

 「文」には、聖なる存在という意味があるということを、改めて考えなければならないのである。

 その点で、「文化」というものも、「文」によって社会や国家、世界を平和な世界に転じる、宗教的に聖化するということがあることがわかる。

 文化を尊ぶことは、すなわち世界平和と深いかかわりがあるということ。

 神と共に平和な世界を生きるということでもあるだろう。

 ちなみに、「平和」とは対照的な「武」については、その字の中に「止」という字があるので、平和にするために武器を「止める、抑止する」という考え方がなされることがあるが、中国文学者で漢字の研究でも知られている藤堂明保博士によれば、それは間違いであるという。

 「止」という字は「足」のことを意味し、「人が武器をもって 前進することを表したもの」(『漢字文化の世界』角川ソフィア文庫)であると指摘している。

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 様するに、戦争や戦闘を意味しているということである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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