孔子の言葉を記した「論語」は、孔子の弟子たちが聞き書きをした記録であり、生前の孔子自身の校訂や検閲を受けているわけではない。
孔子の死後、その語っていたことを編集し、そして、孔子の言行録を通して、儒教という教義を政治学や道徳学として組織化した。
その意味では、弟子によっては、孔子の言葉の受け止め方が違っていたとしても不思議ではない。
弟子という個人を教えるためには、その弟子にふさわしい言葉で指摘したり指導しなければならないからである。
その点、「論語」には、体系的な教えというよりも、まさに言行録を通して、その背後に孔子が存在するという形式であり、孔子自身の思想をまとめたという編纂以上のものではない。
本人自身が書き残した著書のようなものとして考えることはできないのである。
語る言葉というのは、不特定多数に向けられたものではなく、相手という対象があることを考えれば、それを不特定多数者の者への普遍的なメッセージとして拡大していくと、いささか本質がぶれてしまう面もあるということである。
孔子は弟子たちを教育し、時に集団として当時の古代諸国をめぐって君主の道、統治の要諦を説き、自分の政策や思想を採用してもらうように働きかけていた。
それは孔子の考えていた帝王学、政治学、倫理道徳学といったものが、著作的に書き残されるためのものではなく、実践を通して具体的に現実のものとして反映されなければならないからである。
著作として書き残すようなものではなく、君主が行う政治、国家のあり方や人間のあり方を国家の政策として実行する。
そのためには、具体的に君主を指導する大臣のような立場、政治の実権を握って、法律、政治、経済、教育など、あらゆる面での実践をして国家自体を理想の形につくりあげるものでなければならなかった。
画家は絵を描いて画家としての存在価値があるとすれば、孔子にとって、自分の著作は自身が国家の中枢で政治を動かすという総理大臣のような立場が、その完成の第一歩である。
すなわち、孔子の指導を受けて変わっていく国家が、孔子の著作なのである。
その意味では、ただ単に修身を説く道徳家という次元ではなく、哲学者や思想家といった面で捉えていくと、その本質を見失うといっていいだろう。
だが、そうした志を抱いた孔子の希望は、ついには自分が生きている間には、かなえられない夢であるということを悟った。
だから、ある時期から孔子は弟子を養成する教師としての道を歩むようになった。
自分の理想を弟子に託したのであり、そして、その弟子の中でも、特に自分の後継者として選んだのが、願淵(がんえん)だった。
孔子には、優れた才能を持つ弟子たちが多数いたが、それは孔子のもつ多彩な能力の一部を分かち持つという面では抜きんでていたが、孔子の求めるのはそうした能力ではなかった。
孔子の弟子には、一国の宰相になるぐらいの器量を持つ者やその他、政治家や思想家として有能な人物が多かった。
実際に、そのような立場になった弟子は少なくない。
しかし、それは政治家とし、あるいは官僚的な国を動かす有能さであっても、孔子が目指した理想的な聖人君主の道を説き実践できるような器量までには至っていなかった。
政治家にして宗教家、古代の中国の天命を受けて帝王となった堯舜などの天子のような人物が孔子の理想的な姿だった。
その意味で、有能な弟子であっても、孔子は彼らに後継者を指名することはなかったといっていい。
それこそ「帯に短し襷に長し」といった長所と欠点があったのである。
実際に、孔子の弟子には、学問分野では、子游や子夏、外交や弁舌に優れた宰我や子貢、政治家としては季路などの抜きんでた人物を輩出している。
孔子は自分の能力ではなく、人格的な側面を受け継ぐ人物こそ、自分の後継者として考えていた。
天という思想を知り、その天の意思を代行できる人物、すなわち孝行に優れた願淵に、孔子の本質を受け継いでもらいたかったのである。
願淵は、目だった能力を発揮した人物ではないが、徳行に優れていて、その点を育成していけば、孔子ほどの総合的なカリスマ的な能力がなかったとしても、孔子の本質を後世に伝えてくれるだろうと期待していた。
だが、その願淵も孔子の生前に早世してしまう。
自分が書き残す著作、その象徴のような後継者である願淵の死。
それは天命とともに生きて来た孔子にとっては、自分の理想を果たすべき未来が消えてしまうことを意味する。
孔子は、願淵の死に際して、「論語」には次のような言葉を発したとされている。
「願淵死す。子曰く、ああ、天はわれを滅ぼせり、天はわれを滅ぼせり」
孔子が同じ言葉を繰り返して嘆いたのは、願淵が死ぬことによって、孔子の願った理想が後世に残らなくなってしまうことを恐れたのだ。
孔子の率いた儒教集団の行く末を心配したのではない。
なぜなら、孔子の弟子は、孔子の死後、中華文明の政治思想の核となるべき儒教を確立し、政治を背後から動かし、そして、東洋文明の中核をなすほど、強力な政治思想となっていったからである。
孔子は、その程度のことは見通せたが、その儒教思想の中心の精神、徳行や仁愛、孝行の精神を受け継ぐ者は願淵しかいないと考えていたのだろう。
東洋文明の中核を成す儒教、その徳行は体現され実践あるいは実体としての人物として登場しなければ、孔子の言葉をいくら編集・編纂しても、本当の意味で完成されたとはいえない。
「論語」という言行録によって、孔子像の伝説化は生まれたが、それはまた儒教の権威主義、官僚化、東洋文明における政治的停滞と腐敗の温床となったことも確かである。
何でもそうだが、権威主義という停滞に陥ってしまうのは、その言行録が孔子の真意を100パーセント伝えていないからである。
また、たとえ、孔子自身が自分の著作を執筆したとしても、それは自分の真意を伝えることには限界があって難しいだろう、と考えていたのかもしれない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)