コロナ禍で、マスク姿が当たり前のように感じているが、考えてみれば、これは異常な状態といっていいだろう。
マスクをすることで、鼻と口の部分が隠れてしまい、唯一露出した眼ばかりを見るしかない。
眼は口ほどに物をいう、という言葉もあるけれど、マスクの上の眼を見ても、どんなことを考えているのかわからない。
眼のほかが隠されていると、眼は心の窓ではなくなっている。
というよりも、顔全体の表情や姿が分からないほど、皆同じ顔といったイメージや印象を受けるのである。
女性も、マスクをしていると、美人であるかどうか、という判断(セクハラと言われてしまいそうだが)さえできない。
中性的な顔、それこそマスクを含めて仮面をかぶっているような感じで、それこそ個性が無く無機質なロボットのように見えることさえある。
顔というものは、その人の個性、表面的な側面であるけれど、その人を特定することができる入口ということができるかもしれない。
眼と鼻、口、頬の筋肉など全体がバランスをもって、個人の名前と一致する特徴のある個性、その人の属性を表現している。
マスクをしていると、その個性が失われ、その人が果たして、名前の通りの人物であるかどうか、が見えなくなってしまうのである。
もちろん、マスクというものが今後、常態となってしまい、それが個性の一部となっていけば、眼やその他露出した部分で、新たにその人を認識するようになっていくのかもしれない。
そうなれば、マスクをつけているという違和感が無くなり、個性の一部として認識されていくのかもしれない。
しかし、今現在は、まだそのような状況にはなっていないので、マスクをしている姿はお面や仮面をかぶっているようなイメージがある。
それにしても、演劇や古典的舞踊、能などで、仮面をつけるだけでこの世ならざる存在、何か現実を超えた存在を意識させるような存在に変わるのはなぜだろうか。
面をかぶる以前は生々しい肉感を感じさせた存在が、仮面によって、まるで現実を超えた霊や別人のような印象に変わっていく。
同じ人間だとは思えないような雰囲気がただよう。
なぜ別な人間のように仮面をつけるだけで感じてしまうのだろう。
それはおそらく、人を認識するにおいて、顔というのが重要な要素を占めているからではないか。
その人の顔、眉や眼の形、鼻の形、そして口の動きなどによって、視覚的に人を認識する部分が多いからではないか。
無意識な作用かもしれないが、相手が知人かどうか、肉親かどうか、というようなことは声による聴覚もあるけれど、大部分は顔で知覚する要素が多いような気がする。
その顔が仮面などで隠されることで、その人を知覚するセンサーが断絶され、見知らぬ人のような感触になる。
果たして、この人は誰なのだろうか。
そんな不思議な感慨を覚えたりするのではないだろうか。
しかも、仮面は固定されているために生き生きとした表情がないので、笑っているのか、泣いているのか、それとも怒っているのか判断できない。
そのために、感情の特定ができず、そのことによってむしろ仮面は無限の多様な表情の解釈ができるようになる。
同じ仮面ひとつで喜怒哀楽を所作や動作で表現する。
その暗示的な表現によってむしろ演者よりも見ている観衆の側に、無限の可能性が感じられ、そこに様々な表象と暗喩や隠喩を読み取ることができるのである。
演劇は、演者の表現によって様々な可能性を生み出すが、それにしても、それを見る観衆という存在が無ければ意味が無くなってしまうのである。
かつて古典芸能である能の舞台、それも自然の中で火を焚いて行われる薪能を見たことがある。
こんな舞台も何もない空間で、ただ能をやっても、音も響かないし、光も少ないのであまり見えないし、あまり感動は得られないだろうと見る前は考えていた。
ところが、そんな先入観はすべて打ち砕かれた。
わずかな音、わずかな光、わずかな暗闇に浮かぶ所作、それらがかえって様々な暗示やイメージをふくらませて、釘付けになってしまった。
わずかな炎のあかりの中で、浮かび上がる白い能面の顔の表情はちろちろと火の光を反射し、闇が交錯し、様々な言葉を語っていた。
自然の風や音、砂利石を踏む音、そして、何やらわからぬ動作、間延びした声の合いの手や鼓の音、それらが雑然とした中で、時に集合し、時に関係なくばらばらに打ち出される。
そこには、ストーリーといった一貫した物語性はない。
ただでたらめに動いているようにだけ見える。
しかし、そうした脈絡の無さ、統一性の無さ、ただ好き勝手に行われているような能の所作が、いつのまにか自然の中に溶け込み、自然が物を言い、そして、あたりを隠喩に満ちた表象の世界に変えていく。
能は人工的なものではなく、自然と一体化して、何もかもが調和した世界を創造していく。
そんな時、仮面はもっとも表情豊かなものとなり、時に恨み、怒り、笑う。
そして、観衆もそのドラマの世界、自然の世界の一部と化して、能の所作、薪のはぜる音とともに動じ、停止する。
演劇というものの究極は、こうした見る者と見られる者の共同作業と言えるかもしれない。
その意味で、コロナ禍によって、マスクが常態となった現在、人々は皆、意識するとしないを別として、全員が一つの能舞台のような空間に立っていると言ってもいいだろう。
マスクより見える眼は、ただ外を見るための眼ではない。
その眼を通して、心の中の真実を表す窓であるといっていい。
真実が浮かび上がり、悪があらわになっていく時代に、眼が何を見なければならないのか。
改めて、そのことを考えなければならない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)