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「汚れてしまった悲しみ――中原中也」その1

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘かはごろも
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠けだいのうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気おぢけづき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

 (「汚れつちまつた悲しみに……」)


 詩人の中原中也というと、まず思い浮かぶ詩がある。

 それが「汚れつちまつた悲しみに」(詩集『山羊の歌』収録)というリフレインが各詩の冒頭に来る詩である。

 中原の詩は、言葉に音楽的なリズム感があり、目で読むよりも、朗読したりする方が、その独特な音色は心に響き、どこか心の奥にあって眠っていた記憶を呼び起こすものがある。

 その記憶は幼い時代の故郷の風土につながったもののような、父母とともに生活していた安心感や言葉にできない感情の起伏など、それは悲しみではあるけれど、半面、甘酸っぱいような慰安にも通じる性質を持っている。

 幼い時の思い出が無条件で美しく、そして自己肯定的な甘美さを含んでいるのは、本来リアルなものがフィルターによって好ましい、かくあるべきと理想化した抽象的な記憶のイメージに変わっているからだろう。

 なぜそうなるか、と言えば、現在の自分の立ち位置が幼少時のような守られたものではなく、荒野で立ち尽くすような不安な思いなどに揺れているから。

 現在の自分の状況から、ある意味では逃避したいという願望の表れかもしれない。

 だが、その美しい過去の記憶は、美しければ美しいほど、現在の自分に還って来ると、その自身の汚れ、美しくない自身の姿をいやでも自覚しなければならない。

 なので、中原中也は、「汚れつちまつた悲しみ」と無条件に肯定できない自身の立ち位置を表現する。

 自己の中で理想化された故郷の幼児の記憶、それが自分の現在の汚れた大人としての自分に跳ね返って来るのだ。

 この故郷に対するアンビバレントな感情は、同じ詩人の室生犀星が詠んだ「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」という詩句と通じるものがある。

 もちろん、故郷に対する犀星の感情には、複雑な生い立ちに関わる家族関係があり、中也の溺愛された家族関係とは違っているので同質のものとして考えることはできない。

 そして、もう一つ、犀星にはない感覚が、故郷への憧憬とともに、そこに漂う悲しみが単なる幼児の記憶や故郷に感じるものに留まるものではなく、どこか生まれる以前の原始的な感情に根ざしているような印象を受けるのである。

 詩人はもちろん、個人的な自己表現として自身の心を軸として世界の心象を歌い、そして、その言葉の底に、数々の時代的な民族や民衆の精神的な深い深層心理に入り込み、それをあらわにする。

 その意味では、詩人とはある意味で、神の言葉を自身の身体に受け、予言や啓示として伝える巫女のような性質を持っていると言えるかもしれない。

 詩人の詩は、それが優れている表現の域に達していればいるほど、個人の表現を超えて、時代や社会、民族の精神までも映す鏡となっている。

 もちろん、これは基本的には個人主義が中心となってしまった現代の文学には衰退している面ではあるけれど、ただ、本物の詩人は自己表現の域を超えて社会の代弁者のような歌を詠むということは間違いない。

 その点で、中原中也は無意識で、自己の幼児の記憶、故郷の風景を詠んでいる中で、そうした原始的な人間の根源的な感情やイメージを引き出していると言えまいか。

 ふっとそんな気がするのである。

 その点では、中原中也は故郷への無限の慰安を感じるとともに、そこに自己を不安にさせるもの、生まれる以前の人類の意識、感情というものにふれてしまったのではないか。

 「汚れてしまった悲しみ」とは、そうした中也の心に潜む人類のDNAの記憶、悲しみに通じているような気がする。

 少し拡大しているような点もあるかもしれないが、中原中也の詩には、どこかそうした宗教性を感じさせるものがある。

 実際に、文芸評論家の河上徹太郎は、中原中也を宗教詩人と呼んでいるほどだ。

 その点について、次のよう言う。

 「もっともこの宗教詩人ということには注釈がいるのであって、中原は正規のキリスト教信者ではない。また洗礼を受けて堅い信仰をもった詩人というものは他にあろう。しかしキリスト教精神というものを本質的に生かして自分の生活感情なり感受性なりを築き上げ、それで詩を歌ったのが中原なのであった」

 (河上徹太郎編『中原中也詩集』角川文庫)

 中也の詩を読んでいると、確かに、どこかキリスト教の香りを感じることがある。

 たとえば、「無題」と題された一連の詩には、キリスト教を思わせる次のような詩句がある。

「幸福は厩(うまや)の中にゐる

藁わらの上に。

幸福は

和める心には一挙にして分る。」

(「Ⅴ 幸福」の冒頭部分)

この「幸福は厩(うまや)の中にゐる」という表現は、イエスが厩で生まれたという伝説を思わせるものがある。

(フリーライター・福嶋由紀夫)

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