子供のころは、誰でもそうだと思うが、遊んでいてよくケガをした。
当時は、遊び場は外の野原や街角、空き地などだった。
そこで、遊び友達と走り回り、相撲をし、縄跳びをし、だるまさんが転んだなど、手作りの遊びにふけった。
流行っていた忍者や合戦ごっこ、月光仮面などのドラマの影響を受けた月光仮面ごっこ、スーパーマンの真似など、その場で思いついた遊びをしてあたりが暗くなる夕方まで遊んだものだった。
とにかく外で、友人というよりも悪ガキたちと遊びまわることで毎日を過ごした。
なぜあの頃は、そうしたちょっとしたゲームや遊びに夢中だったのか、今思い出すと不思議になるほどだった。
とにかく、学校から帰ると、ランドセルを放り出して、外に飛び出した。
今の子供はゲームやスマホ、テレビなど遊び道具に不自由しないから、外より家で遊ぶ子供が多いかもしれない。
また、コロナ禍や誘拐や事件に巻き込まれるケースがあるので、親が外に出ることを禁じている場合もあるだろう。
野外で遊ぶという機会がないので、ケガが絶えないというのはあまりないのかもしれない。
だが、当時は遊びは楽しかったけれど、危険なことや危ないこと、ケガをすることも多かったのである。
たとえば、野遊びだと、池などにザリガニを釣りに行ったり、川に遊泳に行ったりしていて、足を滑らせて溺れそうになったこともある。
もし、その時、一人で遊んでいたら、危なかったかもしれないが、遊び友達には、年上のお兄さんやお姉さんがいたので、助けてもらった。
また、子供時代は自分の存在価値を示したいのか、危ないこと、危険なことにチャレンジすることが勇気の証明だと思い込んでいた。
なので、友達が高く積み上げられた木箱から木箱へ飛び移って、「どうだ」といった自慢をしたので、なにくそ「僕だってできるわ!」と自分の体格と運動能力を過信して2メートルぐらいの幅を跳んだ。
跳んで向こうの木箱に着いたが、ぐらぐらと揺れ、そして崩れてしまった。
木箱とともに私は真っ逆さまに落下した。
全身を打ってしばらく気を失うほどだった。
特に、落下して転んで擦り傷を作って膝から血を流し、痛みが全身を突き抜けるようだったことを覚えている。
その場は我慢して家に帰り、母がいると、その傷を見せつけるようにして「イタタタ! 痛いよう!」と泣き叫んだ。
母はそんな私を労わるように傷の手当をしてくれた。そのやさしい手と母の声が、不思議なほど痛みを和らげてくれたことを思い出す。
確かに、「手当て」という言葉は、痛む部分に手を当てるという医療行為的な語源がある。
おまじないに似た民間療法的なものといっていいかもしれないが、それでも、手を当てるという行為で心理的な安心感を得るせいだろうか、痛みが少しうっすらと和らいだ気がしたことを思い出す。
特に、それが母の手であれば、なおさら安心感が深まるといっていい。
なぜなら、子供というものは、生まれる前は母親の胎内で1年間近く、母の身体を通して育まれ、命の栄養を与えられ、そして愛されてきたからである。
そうした母子の絆を母の手当ては思い出させるといっていいのである。
痛みが和らぐのも、そうした期間があったから、安全であった胎児としての記憶がよみがるのかもしれない。
手当てで思い出したが、最近は人の手で触ったものは受け付けられないという人がいるようだ。
たとえば、人の手で握ったおにぎりが食べられないという人がいる。
母親ならば大丈夫という人もいれば、それさえもだめという人もいるらしい。
それは潔癖症とも重なるかもしれないが、こうした性癖は理解できるけれども、どうなのだろうか。
梅干し博士こと、樋口清之博士の本には、おにぎりは塩で握るために殺菌作用があって、長持ちしたので、昔は携行食品として作られたという説を記していた。
また、握ることでコメに握った人、母などの思いが込められていて、健康にもいい影響があるという。
これを信じるかどうかは別だが、とにかく人間は食べたものが身体に吸収されて栄養として全身をめぐり、健康を維持するのは間違いない。
そして、作り手の人が料理に見えない愛情を込めるかどうか、というのも見えない調味料となって食べる人の心身に影響を与えるかもしれないというのも、あながち空論とは言えないだろう。
悪口が人の心身に悪い影響を与え、絶望や心身の不調や健康に損害を与えるとするならば、見えない偉人の言葉や人の言葉が、人に勇気や元気を与える特効薬になることも確かである。
その意味で、母の握ったおにぎりが、見えない愛情によって、子供の心を育み、情操を豊かにし、そして健康にする力がないとは言えない。
もともと、人間が食べるものは人の手によって育てられ、収穫され、そして、スーパーなどの店に飾られて売られる。
その点では、自分で育てて食べるという人以外は、すべて人の手によって作られた物を食べ、心身を生かしていることは間違いない。
おにぎりは、その人の心が手から愛情というパワーを与えてくれる食物である。
かつて、子供時代、何のおかずがなかったとしても、おにぎりを食べるだけで満腹になったのも、そこに母の愛情が込められていたからだろう。
もちろん、現代ではスーパーなどで売られているおにぎりは、機械的に作られているというところもあるだろう。
だが、そのおにぎりから子供時代の母との記憶や思い出が伝わって来るのもある。
最近、にぎらないおにぎり、「おにぎらず」というものがある。
文字通り、にぎらずに具材をはさんでいるだけのものだが、おいしそうには見えるけれど、そこには母の愛情が込められた思いはあるのだろうか。
手塩にかけて子供を育てるという言葉がある。
それは子供を大切育てるという意味である。
おにぎりは、そうした手塩にかけて作る料理であることを改めて実感するのである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)