取材で、小笠原諸島の父島に一時滞在したことがある。
数十年前の話だ。
ホエールウォッチングで有名な島だが、当時はそれほどでもなかったように記憶している。
父島までは船で行き、そこで次の取材地の中継基地として民宿に泊まり込んでいた。
観光地ではあるものの、港からすぐに山道になるような感じで、食事のためにスナックのようなところで出かけるほかは、あまり外出しなかったことを覚えている。
もちろん、宿の人に勧められた場所やガイドブックにある観光地などは巡ったものの、大部分は部屋にこもっていた。
自然は美しかったけれど、若かった当時の私は、そうした自然にはそれほど関心を持っていなかったこともある。
なぜしばらく待機状態だったのかと言えば、硫黄島へ行くためにチャーターした漁船が機械などの整備のために数日、待たなければならなかったからだ。
毎日退屈だったので、取材の同僚と民宿の部屋で本を読んでいるか、いつも人があまりいないスナックで、ご飯を食べ、コーヒーを飲みながら過ごした。
そのスナックでは、どこでもそうであるように、週刊誌や新聞、そして、マンガの単行本が揃えられていた。
新聞と週刊誌の方は、船便でしか届かないので、かなり古いものなので、読みたいという気持ちにはならなかった。
そこでマンガでも読もうかという気分になって、棚を見ると、既に読んだ本か、少女漫画が並べられていて食指が伸びなかった。
ただ、時間があるので、どれかを読もうと思っている中で、山岸凉子の代表作である「日出処の天子」シリーズを見つけた。
このシリーズは、一度読もうと思ってチャレンジし、挫折したことがある。
それはテーマ自体がどうも古臭く思ったことと、マンガの描線が細く、しかも、少女観画家にありがちな細長い人物像だったので、途中でリタイアしたのだ。
だが、ここは何もない父島。
時間だけはたっぷりある。
面白くなければ、そのときに止めればいい。
そんな軽い気持ちで、読み進めたのだが、そのときには南国の島国という特殊な事情もあってか、日本古代史の世界にスムーズに入り込めた。
今ではそれほど覚えていないのだが、ただその世界観がダークで、そして、どちらかというと、呪術的なテーマ、ジェンダー問題などを含んだ先駆的なものだったように記憶している。
特に、聖徳太子が異能者で、不思議な能力をもっている人物に描かれていることが少女漫画らしくない印象だった。
当時は、こうした新しい趣向をもった少女漫画家が登場した時代で、山岸凉子もその一人だった。
日本古代史をこのような不思議な観点から描くことが出来るのか、と当時はひどく驚いたことを覚えている。
何しろ外は南国特有の熱帯樹木が立ち並び、風も生暖かく、海も澄んだ色を浮かべているので、日本古代史をテーマにしたマンガが、ひどく遠いようで懐かしい気持ちを起こさせたのである。
といっても、この時点では、山岸凉子のマンガに感銘を受けたものの、その独特な世界が少しばかり気持ち悪く感じてもいた。
私が山岸凉子の作品を少しばかり読むのようになったのは、『日出処の天子』ではあっても、それだけではない。
山岸凉子の作品で好きになったのは、北海道を舞台にしたファンタジーの「妖精王」からだった。
この「妖精王」は、現在の異世界転生のライトノベル小説の、ある意味では先駆的な作品で、北海道という現実の舞台と北欧やアイルランドの神話的な世界が違和感なく溶け込み、不思議な仮想現実の世界を構築していた。
現在、異世界転生のテーマは、ライトノベルの王道テーマで、その多くが人気が出ると、書籍化やマンガ作品になるなどの展開を見せているが、趣向や設定が面白いものはあっても、異世界の現実感を再現した感覚を感じさせるものは少ない。
そうした作品に比べると、「妖精王」には異世界というものの、現実と幻想とのあわい、その夢のような現実のような不思議なファンタジーの世界が再現されていて、不思議にも物語の世界に引きこまれるような魅力がある。
このようなリアルな現実と幻想の混合した世界は、おそらく当時の現実、戦後の平和な空間の中にあって、現実の手ごたえがあまり感じられなくなった時代背景がある。
要するに、現実というものを感じられない精神的彷徨、自分探しなどのアイデンティティーの不在に悩んでいた心の迷いが、こうしたファンタジーを生み出す原動力となっている気がする。
とはいえ、一見すると、現実逃避にしか見えない、異世界転生的なテーマ、そこに魅力を感じるというのも、時代の空気や思想が反映しているのは間違いない。
ただ、異世界へ転生してしまえば、それは現実を否定し、もう一つの想像力が生み出した世界を肯定することになってしまう。
現実逃避といってもいい。
その点で、山岸凉子の作品を顧みると、現実逃避とは言い切れないリアルな現実認識があることが感じられるのである。
たとえば、父と娘の関係を恐ろしいまでの現実として描いた短編マンガ「キルケー」は、今でも思い出しても、身の毛がよだつような恐ろしさを秘めていた。
絶対的な家長として権力を持っていた父とそれに従うことで自身のアイデンティティーを保っていた娘の物語は、人間の深淵な宿命といったものを感じさせた。
少女漫画家は、こうしたマンガを通して、人間存在の深淵にある闇や業の深さをなぜ描けるのだろうか、と思ったことがある。
おそらく、山岸凉子のような少女漫画家という立場は、エンターテインメントの職業であると同時に、何らかの神々からのメッセージを天から受け取る巫女(みこ)的な存在であるからだろう。
そんな気がしてならない。
(フリーライター・福嶋由紀夫)