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「ドストエフスキーについて」上 

ロシアのウクライナ侵攻という悲劇の中で、われわれは新しいパラダイムの真っ只中にいる。 

 果たして、今後どうなるかわからないが、ウクライナ以前と以後は、まったく違った世界が出現することだけは予想できる。 

 そして、コロナ以降の世界も、これまでのような生き方とは違ったものになることも、間違いない。 

 そして、私はロシアのウクライナ侵攻という事態の中にあって、ロシアとは何か、共産主義やその思想について考えることになった。 

 とはいうものの、私が考えることはそう大したものではないが、ただ、ロシアという国の民族性や精神性、魂といったものを想起したとき、浮かんできたのは、ロシアの文豪・ドストエフスキーのことだった。 

 ドストエフスキーの作品には、『罪と罰』にしろ『悪霊』にしろ『カラマーゾフの兄弟』にしろ、そこには予見的で象徴的な人間の業といったものが展開されている。 


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 ドストエフスキーは、ロシアと西洋文化という狭間の中にあって、その現実と理想などの矛盾の相克に悩む知識人の姿を描いている。 

 人間とは何か、罪とは何か、生きるとは何か、そんな哲学的とも言える命題を抱えながら、文学の中にそれを取り込んで、全体的な人間像を探り求めたといっていい。 

 その意味で、ドストエフスキーの小説は、文学であり、宗教であり、詩であり、哲学であるという総合的なイメージを持っている。 

 ドストエフスキーによって生み出された小説の人物たちは、フィクションではあるけれど、現在にも通じる人間の根源的な問いを投げかけているのだ。 

 文学に開眼というのは大げさかもしれないが、私にとってロシアの文豪・ドストエフスキーに出会ったことは、そうしか言いようのない体験だった。 

 受験校だった高校時代、私は学校へ行くのが憂鬱だった。不登校まではいかないが、毎日、学校へ行くのがつらく大変だった。 

 もし、当時、不登校や引きこもりが現在のように当たり前の状況だったら、間違いなく部屋に籠ってしまっていただろう。 

 そんな憂鬱な日々、唯一といっての楽しみが、学校の図書館で本を借りることだった。 

 授業が終わると、私は図書館の戸を押して、部屋いっぱいに並んだ書棚を背表紙を見ながら歩き回った。 

 その時は、ある程度、興味のある本は読みつくしていたので、何か目新しい本がないかを探していた。 

 当時は、私は文学的なものよりも、より面白いもの、ミステリーやSF小説、そして、中国の古典文学(といっても、宋や明、清などの通俗小説―三国志や西遊記や水滸伝、その他怪奇小説など)、エンターテインメント作品ばかりを読んでいた。 

 なので、文学全集などはほとんど見向きもしなかった。 

 しかし、その日はなかなか読みたい本が見当たらなかった。 

 閉館時間が近づいているのに、読みたいと思う本が見つからず、書架の間をうろうろしながら往復していた。 

 仕方がない。 

 今日はふだん選ばない本を探してみよう。 

 そんな風に決めて、文学全集のコーナーを見て回り、その中でも、最近収められた真新しい表装の世界文学全集から選ぶことにした。 

 その中で、なぜドストエフスキーの本『罪と罰』を選んだのか、今ではよく覚えていない。 

 タイトルの『罪と罰』という言葉の響きも、少し法律用語のようなイメージがあって少しも魅力を感じなかった。 

 手に取ってはみたものの、それほど期待はしていなかった。 

 一時の退屈しのぎ、あるいはその場限りの読み物として楽しめればいいといった感覚であったと思う。 

 家に帰ったのち、私はその1ページを開いた。扉の絵は、ドストエフスキーの肖像画だった。 

 少し頭がはげかかり、長い顎ひげ、そして、どこかあきらめきったようなまなざしで下の方を向き、うつむいたような肖像。 

 それを見てから、小説の本文にとりかかったのだが、その後のことは実はあまり記憶にない。 

 スリリングで面白い小説やハリウッド映画などを表現するに「ジェットコースターのような面白さ」という表現があるが、まさにそうとしか言いようのない体験だった。 

 指がページに張り付いたかのように、次のページの活字を追う。 

 頭の中には、沸騰するような主人公の独白や心理、そして、次々に起こる事件や場面に釘付けになり、胸が痛くなるような切迫感で小説の世界に捕らわれてしまい、現実と小説の世界が交錯した。 

 その日はほとんど寝ていない。 

 学校に行かなければならなかったが、それももうろうとして意識がわからない状態だった。 

 その日は授業が終わると、すぐに帰宅して、小説の続きを読んだ。 

 白昼夢のような時間が過ぎて、ご飯を食べたかどうかさえ覚えていない。 

 そのような強烈な時間を経過しながら、その日も徹夜し、ようやく読み終わったのは翌朝の5時ごろだった。 

 読み終わったものの、白昼夢のような気分が持続し、自分が『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフになったかのような気持ちだった。 

 よく知られているように、『罪と罰』は、主人公の苦学生のラスコーリニコフが、学費などを得るために金貸しの婆さんを殺すという話である。 

 話としては単純ではあるが、そこに主人公を捉えた選民思想といったものが介在し、そのことのゆえに人間の罪の問題と関わって来る。 

 ラスコーリニコフは、歴史上の偉大な人物たち、たとえばナポレオンが戦争によって多くの人間を殺しながら英雄と称えられるのに対して、1人を殺す人間が犯罪者となって裁かれるのはなぜなのかと自問自答する。 

 ラスコーリニコフは、自分が貧しい環境にあるものの、選ばれた人間であるから、ナポレオンのように社会の害虫である金貸しのような存在は踏みつぶしても罪にはならないという、一種の「選民思想」に捕らわれるのである。 

 そして、ついには、その妄想を実行するために金貸しの老婆のもとへ赴くことになる。(この項続く) 

 (フリーライター・福嶋由紀夫) 

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