最初に受けた印象というのは、なかなか変わらない。
この人は善人だと思ってしまえば、そのままその印象に引きずられてしまい、後にその判断によって痛い目に遭うこともある。
今問題になっている「振り込め詐欺」は、その最たるものだろう。
相手が電話をかけて来たのは、自分に重要な用があるからだという思い込みがあるために、相手の言っていることに対して、最初から疑うよりも、自分の認識がそれに合わせて同調して考えるようにしてしまうのである。
心情としては最初に相手の言っていることを理解しようとし、受け入れてしまっているといっていい。
感情が同調しているので、相手がウソを言っているかどうかは、理性的な判断をする必要があり、それは相手からある程度の距離を置かないとできない。
だが、その時には、既に相手の言った子供や孫の危機や失敗に対して、大変だという感情があるために、客観的に考えるための理性を発動することができない。
おかしいな、とは思っても、子供を思う心に動かされ、相手の話すストーリーに自分を合わせてしまうのが人間の自然な心なのである。
家族に対する感情は本能的な愛情だと言っていい。
よく子供が海や川で溺れたときに、親が後先を考えず飛び込んで、自分自身も犠牲になってしまうケースは、こうした人間の心にある家族への無償の愛が根底にあることを示している。
こう書いていると、私はそうしたケースに遭ったときに、理性的に対応できるような印象を与えてしまうが、実際はそうした場合に遭ったならば、おそらくふつうの人と同じようになってしまうのではないか、と思っている。
それほど人間というのは(人間といっても私自身の考える範囲は周囲ぐらいであるが)、相手を無意識に信用したい、あるいはウソをついていないと思い込みたがる性質がある。
性善説と言っていいかもしれない。
そして、相手を信用する材料として判断するのは、弁護士や警官、役人などという相手の肩書である。
まさか肩書を詐称しているとは考えない。
それは自分自身も肩書を通して身分を証明する、相手と交渉するという経験をしているからである。
肩書というのは、人間の中身とは関係のない衣装のようなものだが、それが実体を持っているように思うのは、それが社会に通用するアイテムだからである。
それは、あたかも一枚の紙に印刷されたに過ぎない紙幣が、そこに印字された数字と同じ価値を持っているかのように遣っていることと似ている。
紙幣は実質的には、紙である。
しかし、そこに国の証印、保証があれば、価値が生まれる。
肩書も同じように、それによってそれを名乗る人間とイコールのように見えさせてしまう。
誰もフリーという肩書のない立場になれば、そのことに思いいたり、愕然とするだろう。
私がフリーライターという肩書で名乗っているのも、一面会社などの制約からは自由ではあるけれど、社会的には何の力もない、ということでもある。
いずれにしても、肩書などの最初から与えられるイメージはその後も長く引きずってしまうことは間違いない。
最近、自分自身が高齢者となっているせいか、昔は全然関心を持たなかった高齢者、老人の問題について自然に眼がいくようになった。
基本的に、人間は多くの情報に接し、それを理解することはできるけれども、それを自分自身の問題として感情的に同調することは難しい存在である。
若者が老人問題に関心を持てるかといえば、基本的には持てないだろうと思う。
自分自身が直面している問題、イジメや青春特有の悩み、恋愛や就学や就職、親子や友人などの人間関係などで手一杯といったのが本当のところで、自分とは関係のない老人の問題まで意識が向かない。
もし、老人問題に対して意識が向いている若者がいるとすれば、それは自分の生い立ちに老人、すなわち祖父や祖母などと一緒に生活し、接してきた背景があるからだろう。
祖父母のような老人と生活していれば、老人問題、認知症やその他の問題は切実なものであり、それが高齢者という社会問題にも繋がっていく。
しかし、そうしたケースは少なくなっているのが現状である。
祖父母と一緒に共同生活をしているという経験があれば、高齢者の問題は社会問題である前に、家族の問題として考えられる。
だが、現状では、祖父母と生活をする大家族制度は崩壊し、核家族化している。
核家族化した家庭に育った人間は、まず自身の家族のことは考えられるが、祖父母のような過去については考えられない。
親にも親がいて、先祖がいて、自分が存在しているという意識にはなれないのである。
まず自分自身のこと、それが現在であり、親もそれに含まれるが、自立とともに遠い距離になってしまう。
背景にあるのは、自分だけを肯定していればいい、という現在だけが満足であればいいという個人主義である。
戦後民主主義が生んだ思想であり、生活スタイルである。
現在だけを価値視する個人主義が横行すれば、やがて社会が崩壊していくのは間違いないだろう。
現在の日本では、その軋みが起きているように思えてならない。
ならば、個人主義の先進国であるアメリカは、なぜなかなか崩壊しないのか、
もちろん、かつてのような世界の警察を誇ったアメリカは、凋落しつつあるが、それでも国家としての体裁を整えている。
その背景にあるのは、何かといえば、やはりキリスト教精神であると思う。
アメリカの建国精神は、宗教の自由を求めて来た人々によって、そのいしずえが築かれ、そして個人主義の背骨には神に対する信仰がある。
その背骨があるかぎり、アメリカが壊滅的な崩壊することはなかなかないのではないかと感じている。
では、日本はどうか、というと、アメリカの背骨に当たるバックボーン、宗教的精神がないとはいわないけれど、希薄であることは間違いない。
そうしたことを考えると、日本はもう一度、家族、すなわち祖父母を交えた大家族制度の再建を考えなければならないのではないか。
少子化対策で若者にばかり眼が向いているけれど、高齢者・老人問題に真摯に向き合うことが求められていると思うのである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)
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