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祭となったハロウィンとクリスマス

 どうやらハロウィンも、日本の祭として定着しつつあるようだ。
 ハロウィンでは、渋谷の街が仮装した若者たちであふれたニュースが流れることは記憶に新しい。
 クリスマス商戦を狙ってのケーキなどの新商品の宣伝が早くから行われることも毎年の恒例行事と化している。


 近年、奇抜な仮装した若者をハロウィンの時期に見かけるが、あまり違和感を覚えなくなった。
 とはいえ、この背景には、アニメやマンガのコスプレ文化が一般的となったことがあるだろう。
 仮装趣味というのは、なかなか理解しにくいが、もともと祭には仮装をしながらのものも少なくない。
 仮面をかぶったり、恐ろしい鬼の面をつけて脅したりする踊りや様々な武将や怪物の山車を引いて町内を回ったりする祭の風景は日本各地で見られる。
 それこそ、日常から非日常への移行を仮面や山車を通じて行っているとも言えそうだ。
 仮面をかぶることは、日常の庶民的なペルソナから、見えない神の身代わりとなるための依り代としての機能があると言っていい。
 別人になりたいという願望もそこにはあるかもしれない。
 祭における仮面は、宗教儀式とも関係がある。
 もともと神社の境内の舞殿で神楽が舞われるのは、演劇的な行為ではあるが、基本的には宗教儀式、すなわち神の降臨とその神意を問うものであり、演劇や舞い自体が神と人間を繋ぐ媒介体でもあるからである。
 今のエンターティンメントの源流に当たる芸能は、もともとこうした宗教的行為と密接に関係している。
 ただ現世の人々を楽しませる娯楽という面だけではなく、シャーマンである巫女がみずからの身体に神の霊を宿し、そして、歌や踊りを通じてそれを可視化する行為であるためだ。
 そこから娯楽としての歌や踊りが発達した。
 芸能人に対するファンの心理は、こうした宗教における神と人間との原初的なエモーショナルな情念、それが遺伝子として働いているからといってもいい。
 芸能人のタレントに対する追っかけの推しは、まさしくアイドルという神への信徒の心理が投影されている。
 では、祭になぜ歌が歌われ、踊りを踊るのか。
 当たり前のように行っている歌も踊りも、祭事という中で、神と人とが共に喜びの中で、一体化する。
 その意味で、芸能は神の恩恵を示すものであると同時に、人と神が一体化するためのフェスティバルでもある。
 そこに観客が存在するのは、神自身が自身の祝福と呪いを分け与える信徒という存在を絶対に必要とするからである。
 神は自然の風雨や災害を通して、人間社会に関わりを持ち、それは共に最終的に祭によって昇華し、そして、翌年の豊穣への祈願をする。
 その区切りとなるのが祭であり、祭はその年の締めくくり、そして翌年の架け橋となる行事である。
 もう一つは、祭を通じて、氏族や地縁関係の人々の精神的絆を強め、アイデンティティの確認をするという意味がある。
 というのも、祭における神は、自然神であるとともに、先祖神の性質を持っていて、村や町という地縁に基づく氏神でもあるからである。
 何らかの形で、そこに住む人々との精神的な契約を再確認する。
 そのような緩やかな宗教行事としての祭は、だからこそ、その時期に遠くへ行った人々が祭のために故郷へ帰還することと重なって来る。
 なぜ祭の時期には、故郷へ還るのか。
 それは、やはり自分の根っ子にある風土、自然神、氏神との絆がまだ細い線であっても、繋がっているために、心が騒ぐからである。
 祭の歌や踊りが神事とは関わりのないエンターティンメントであるならば、こうした心の底から帰還したいという思いは湧き上がって来ないだろう。
 その点では、祭は単なる地域起こしのイベントではない。
 宗教行事なのである。
 そうであるならば、地縁や血縁、氏神とも関わりがなさそうなハロウィンやクリスマスが日本ではもてはやされ、習俗のような文化として定着しているのはなぜなのか。
 おそらく、これは日本のグローバリズムの問題と関わっている。
 いや、日本だけではなく、世界各国がグローバリズムというパラダイムの中で一つになっていくという潮流と無関係ではないだろう。
 祭における歌や踊りが地域のアイデンティティの確立と関わっているとするならば、ハロウィンやクリスマスは、キリスト教やその他の宗教の持つグローバリズムと関わりがある。
 ハロウィンにしても、クリスマスにしても、宗教から端を発しているが、それが目指すものは、人間の幸福や喜びを分かち合うということである。


 宗教の教義に入っていくと、分からなくなってしまうが、宗教儀式であるとともに、世俗的な祭でもあるのだ。
 究極的には、他を排除するための祭ではなく、人が平和と幸福を神と享受するためのフェスティバルであるといっていい。
 西洋や国際的なグローバリズム文化の基層となっている宗教は、それぞれの地域、氏族、国家などの縄張り的な領域をもっている。
 が、その縄張り、国境、そして、種族民族の違いという枠組みを外せば、祭は平和の祭典であるといっていい。
 そのことを考えれば、日本におけるキリスト教文化のクリスマスや異教的なルーツを持つハロウィンにしろ、グローバリズムの中における人類の平和のための祭典であるということは間違いない。
 核家族化した現代、こうした習俗化したクリスマスやハロウィンは、家族の大切さを改めて認識させることにも繋がっていると言えるかもしれない。
 (フリーライター・福嶋由紀夫)
 

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