春の花の中で、もっともポピュラーな花は桜でも梅でも、菜の花でもない。
それはタンポポだろうと思う。
桜も梅も菜の花も、人の手によって守られ、そして手入れされ、生かされているという気がする。
それに比べると、タンポポは自然そのもので、植えようと思わなくても咲き誇り、どこにでも、たとえそれがコンクリートやアスファルトの道であっても、その隙間や裂け目から小さな噴水のように咲いている。
わずかな土と水と光、それさえあれば、命を芽吹かせ、茎を伸ばし、葉を立て、そして蕾から放射状に花びらが鋭く炸裂し、最後には丸い落下傘のような種となり、風に拭かれて気ままに飛んでいく。
人間の人工的な手を加えなくても自立し、完結したサイクルの生涯を送り、やがて理想の空き地を見つけて埋めつくすような群れとなって繁殖する。
タンポポの強靭な生命力を見ると、生きるための勇気があふれてくる気がする。
実は、桜の花見に出かけたとき、小さな公園のグラウンド、その片隅にタンポポが健気に咲いている光景を見かけた。
整備されたグラウンドから押し出されたかのように金網の外、コンクリートの道路との間の狭い土に懸命に茎の頭上に黄色の花火を咲かせているタンポポ。
絵具の黄色よりも美しい花の姿いは、どこか気品さえ感じてしまう。
それはどこか芸術家が作った黄金の精緻な細工物のような印象だった。
タンポポで思い出すのは、実は聖書の言葉である。
新約聖書のマタイ福音書には、何を食べようか、何を飲もうか思い悩むなという言葉の少し後に、次のような文章がある。
「衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(新共同訳)
ここには、野の花がタンポポであるとは言っていない。
ネットで調べてみても、野の花についてはほとんど言及がないようだ。
聖書に出てくる花については、それぞれ様々な花が挙げられているが、野の花とだけしか書かれていない花についてのデータはほとんどない。
これは私の探し方が悪いのかもしれないが、出てくるのは、野の花というよりも、食べられる栽培種のリンゴや葡萄やザクロ、タマネギ、イチジク、小麦などのほか、野の花としてはアザミなどが挙げられている。
中には、野の花の候補として、ルピナスの花を挙げているキリスト教のホームページもある。
ルピナスの花は、マメ科の花らしく紫色の花を咲かせる。
写真も掲載されていたので見たけれど、印象としては気品がある花だが、着飾っているという感じはしない。
貴婦人のようなたたずまいがあって、高貴なイメージがあるが、やはり着飾っている感じではない。
紫色は高貴な色であるが、それと同じように貴ばれている色は黄色である。
西洋ではないが、古代中国では、皇位を象徴する高貴な色として知られているといっていい。
黄色は太陽をイメージさせポジティブな感情を起こさせる。
ファッションでも、黄色い衣服を着ている女性は華やかさがある。
その意味では、黄色い花を咲かせる花は、自然の中では着飾っているといっても過言ではない。
野の花として一般的なタンポポこそがふさわしいといっていいのではないか。
ただ、タンポポは当時のイスラエル地方に咲いていたのか、どうかは分からない。
なので、野の花をタンポポと私が思ってしまうのは、イスラエルの地を知らないせいもあるだろう。
一応、タンポポは原産地としてはユーラシア大陸となっている。
中東のイスラエルとはそんなに離れていないと思うのだが、それは植物の生態分布を無視した見方だろう。
その点では、野の花は本当はタンポポではないのかもしれない。
けれど、私はこの言葉からタンポポを思い浮かべてしまうのだ。
日本のどこにでも咲いている野の花であるタンポポが、イメージとして自然に浮かんでくるのである。
しかも、ただの野の花ではなく、食用にもなる花である。
ウィキペディアでは、次のように説明している、
「若葉、花、根が食用になる。セイヨウタンポポの葉は古くから東ヨーロッパや中東で食用に供されており、多少の苦味があるがサラダなどにする。特にスロベニアでは人気がある。アメリカ合衆国の一部では、花弁を自家製醸造酒(タンポポワイン)の原料として用いる。日本ではカントウタンポポなどの在来種と外来種のセイヨウタンポポのいずれも食べられ、若葉を軽く塩ゆでして水にさらしてあく抜きし、お浸しや和え物、汁の実にしたり、同様に花を二杯酢などにする。根はきんぴら、かき揚げ、乾燥させてタンポポコーヒーにする。花は生で天ぷら、茹でて甘酢漬け、酢の物、花酒にする」
読んだだけでいかにもおいしそうな感じがするではなだろうか。
根がコーヒーになるというから興味深い。
どんな香りが、どんな苦みがあるのだろうか。
飲むと、タンポポの種のように空を飛ぶような気持ちになるのだろうか。
野性の風と野性の空、野原や山など、自由な空気がただよっているような印象を与えてくれる。
だからタンポポの天ぷらを食べてみたい。
タンポポのコーヒーを飲んでみたい。
だが、都会で見かけるタンポポは、車の排気ガスやゴミなどに汚染されている気がするので、なかなか試す勇気はない。
どこか自然の野草があふれた所で、あたりの自然のエネルギーを吸い上げて、生き生きとしたタンポポを摘んで、その場で料理したら、と思ったりもする。
それは旅へのいざないでもある。
カバンに聖書を入れて、行く先も定めずに、気ままな旅ができれば、と思うこのごろである。
(フリーライター・福嶋由紀夫)